薫の野郎猫的日常
2017年11月18日 (土) | 編集 |
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先日14日、偶々観たNHK「アナザー・ストーリー」~オードリー・ヘプバーンと「ローマの休日」の中で、監督ウィリアム・ワイラーとこの作品との出会いを始めとする誕生秘話が興味深かった。(再放送⇒2017年11月20日(月) 午後6時00分~)

で、番組を見ながらふと思った。そうか…今頃気が付いた。Disneyにいた頃、米本社の上司に好きな監督がウィリアム・ワイラー、好きな映画が「ベン・ハー」っていった時、あまりいい顔しなかったのは、創業者Walt Disneyが反共、Wワイラーは反共に抵抗しハリウッドに居づらくなり、グレゴリー・ペックたち同じ反共の仲間とローマで「ローマの休日」を作り上げたから。私って昔っから肥後もっこすだからな。Disney入社のための面接でも既存の吹き替え作品をボロクソに評し、面接官の本社の人間(仕事のいろはを教えてくれた私のお師匠さん)から"Very interesting.You're challenging”って言われたっけな(笑)ま、そこを気に入られて面接パスしたようなもんだけど。あの頃の会社は今と違って、クリエイティヴ(創造)とプロダクション(制作)は仕事の役割がきっちりと別れていた。が、ちょうど私があの会社を離れようとしていた頃から、クリエイティヴ排除の動きが顕著になり、いまじゃ往年の名作をコンテンツとしてしか扱わず、しつこいくらいの各種シリーズ化、歴代アニメ映画の実写化と舞台化、ゲーム化を繰り返す。フォルムを変えての使い回し。産み出すより速い、恐ろしいほどのスピードで消費する一方だから、次の目新しい、もしくは他人様が創った往年の人気コンテンツを手に入れるための他社スタジオ買収に躍起になる。(この買収劇に関しても言いたいことがあるので、この件はまた日を改めて、じっくりと書くことにする。)そこに生産性はあっても創造性は微塵も感じられない。プロダクションのみでクリエイティヴのかけらもない。私の眼には今のあの会社は、目の前にあるものを片っ端から口に放り込み、咀嚼もせずただやたらめっぽうに丸呑みし続けるカオナシに見える。

17日の「アニメの実写化に思うこと(http://yaroneko.blog55.fc2.com/blog-entry-2252.html)」でも書いたけど、
「実写で表現できないものを映画化したいからアニメ映画を作った」(ウォルト・ディズニー)。ディズニー他アメリカ映画界ではアニメ映画のことをAnimated Feature(アニメーション映画)と呼ぶ。なのに本家ディズニーもアニメ大国の日本でも、歴代オリジナルアニメ作品を次々と&わざわざ実写化。つまりは「退化」し始めた。もう自力ではオリジナルを作れなくなり、家宝であるはずの歴代アニメをただのコンテンツとしてしか消費できなくなったのか。実写化したらもうそれ以上の空間、脳内変換、想像力たくましゅうした創造空間的広がりは望めないのに。いくら実写化してもオリジナルは別にあり、観る者は比較対象物があるから、様々な観点から比較しながら評価するしか術がない。優れているか、劣っているか。面白いか、面白くないか。このキャラはこの役者でいいのか、適していないのか。世界観は?音楽は?翻訳は?演出は?脚本は?実写化に適した作品か?等々、観客は何から何まで出来を比較する。つまりは、観る者はどこまで行ってもオリジナルを忘れては観ることができない。言い換えれば、観客にオリジナル版との比較作業を要求する。それがリメイク版だ。ある意味、オリジナルを凌駕し、唯一無二の存在になることを目的として作られたのだから仕方ないが、私がいた頃から社内で言われてきた「オリジナルアニメ版と実写版は別作品」という考え。本当にそうか?それは誰の立場で言っているのだ?観客の立場に立って出た言葉ではないと思うけど。制作者側だってオリジナルを意識しないで実写化したなんてことは絶対にないわけで。どこまでもオリジナルアニメ版はついて回る。決して逃れられない。なのに実写化に最も適した1~2作品に限ってならともかく、「くまのプーさん」「チップとデール」「王様の剣」「ダンボ」「ピノキオ」「ライオンキング」「アラジン」「ムーラン」他、歴代のアニメ映画を延々と実写化し続けるディズニーの意図は?いったいどこまで続ける気だ?何のために?さっぱり訳が分からない。事実、今の時点で唯一の成功例と言ってもいい「美女と野獣」実写版の吹き替え版を観た客は訳詞が違っていることに大いに戸惑った。「なんで作り替えた?」「あのアニメ映画の歌詞のままでよかったのに。」あるキャラクターの設定がアニメ版と全く違ってることにも納得いかないようである。「あのキャラはアニメ版のままでなきゃ、この作品の世界観が壊れてしまう。」「何で実写版はアニメ版を踏襲しないの?」戸惑いの声がSNSに溢れかえった。おわかりだろうか。観客は作品の世界の外に追いやられ、「ガヤ(群衆、やじ馬)」の立場になっている。どっぷりと作品の世界に入り込めず、オリジナル版との比較と評価に忙しい。オリジナルアニメ版に縛られている。集中できない。それもあってゆっくりじっくり作品を楽しみたい人は再度劇場に足を運び字幕スーパー版を観直す。しかし結局また、別の対象物を見つけてオリジナルアニメ版と比較し評価する。それでもまだ、字幕スーパー版の方が傷が浅くて済む。吹き替え版はアニメ映画版と実写版ではボイスキャスティングが違うし、訳詞もリップシンク(役者の口の動きにぴったりくるようなセリフや訳詞を考えて当て込む作業)があるから仕方ないのだが、バージョンが増える度、その数だけ違う訳詞が増えていく。楽屋話、制作側の都合、内部事情など知るはずがない観客の戸惑いは如何ばかりか。作り手側はもっとオリジナルをリスペクトし、観客の気持ちに配慮して作業してほしい。

前の職場のことはこれくらいにして、Wワイラーの話に戻りましょう。私がWワイラーが好きな理由の中に反骨精神と飽くなきクリエイティヴスピリットがある。たとえ干されても予算を削られても、腐らず妥協せず群れず流されず、本当に信頼できる少数の仲間たちと、作りたいものはなんとしてでも作る。それが許された時代でもあったんだろう。映画業界が最も輝いていた時代のハリウッド。ヨーロッパ映画と違い、大作と言えば聞こえはいいけど大味なものも多かったアメリカ映画の中で、ワイラーが生み出す映像世界は密度が濃かった。濃厚だった。Wワイラーとは一体どんな人間なのか、ワイラーの代表作の一つ「ローマの休日」がどうやって生まれたのかを知るために格好の教材、ドキュメンタリー番組がある。

NHKで依然放送された【BS歴史館 映画 『ローマの休日』 に隠された意外な事実 ”赤狩り”の嵐の中で】。この中で語られていたことだが、1911年、ハリウッドに最初の撮影所が誕生して100年以上の歳月が流れ、ここで生まれた感動の名画と華やかなスター達が世界を魅了し続けてきた。
その最も鮮やかな組合わせはスクリーンの妖精、オードリー・ヘップバーン主演「ローマの休日」(1953年)。王女と新聞記者の身分を超えたラブストーリー、数々のアカデミー賞に輝いた。しかしこのロマンティックコメディーの背景にはアメリカの闇の歴史が刻み込まれていた。
◎赤狩り 反共産主義
赤狩りは第二次大戦後激化した共産主義排斥運動。最初に狙われたのがハリウッドの映画人たち。「ローマの休日」の脚本家は、共産主義者としてハリウッドを追放されたダルトン・トランボ。

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「ローマの休日」監督ウィリアム・ワイラーは赤狩りに抵抗する運動の先頭に立った男だった。
1953年に公開された「ローマの休日」の主人公は、ある小国の王女アン。舞台は世界歴訪の最後の訪問地ローマ。退屈な公務に嫌気がさした王女はひそかにお城を抜け出す。そんな王女に偶然出会ったアメリカ人新聞記者ジョー・ブラッドリー(グレゴリー・ペック)。
王女の秘密の行動をスクープ記事にすべく素性を隠し同行。かくしてローマの都を舞台に繰り広げられる王女の冒険。この年のアカデミー賞で新人オードリー・ヘップバーンが主演女優賞を獲得、オリジナルストーリー賞も受賞した。
脚本家は、イアン・マクレラン・ハンター。その正体は、赤狩りにあい、共産主義者としてハリウッドを追放されたダルトン・トランボ、その人だ。

◎赤狩り アメリカ国内の共産主義排斥運動が起こった背景とは
1929年にウォール街から始まった世界恐。ルーズベルト大統領はニューディール政策を実施。公共事業による雇用拡大、労働者の待遇改善など社会主義的な政策で恐慌を乗り切る。
アメリカ共産党も勢力を拡大(1930年代 アメリカ共産党 7万人を超える)。世界恐慌は資本主義経済の弱点を露呈させ、貧富の差を無くそうとするソビエトの政策に可能性を感じる人々が増えていったのだ。
更に第二次世界大戦中、アメリカとソビエトは連合国として共にドイツや日本と戦った。脚本家ダルトン・トランボが共産党に入党したのもこの時期。しかしソビエトが経済的、軍事的に台頭、東ヨーロッパの国々が社会主義化し共産主義の脅威が現実となって行く。
1947年3月11日、トルーマン大統領は共産主義封じ込め政策、トルーマン・ドクトリンを発表。米ソ冷戦の始まりだ。そして非米活動委員会による赤狩りが始まった。
最初のターゲットがハリウッドだった。後に「ローマの休日」を書く事になるダルトン・トランボは絶頂期、売れっ子の脚本家だったが1947年9月、赤狩りを実施している非米委員会から召喚状が届く。共産主義に関係した事がわかれば職や財産を失う。
非米活動委員会は公聴会第一週、共産主義反対を唱える有名スター(ロナルド・レーガン、ロバート・テイラー、ゲーリー・クーパー、ウォルト・ディズニー)を召喚しマスコミの注目を集めさせた。
注目をさせておいて共産主義反対を盛り上げた翌週に喚問されたのが共産主義と疑いのかけられている映画人達、ハリウッド・テン(http://zip2000.server-shared.com/1947.htm)と呼ばれる人達だ。
証言台に立ったトランボは、共産主義だと認めれば仕事や地位を失う。しかし共産主義者ではないと証言すれば自らの思想、信条に反する。トランボ達は証言をしない事で赤狩りに対抗した。「ローマの休日」の監督ウィリアム・ワイラーは共産主義とは関係無かったが赤狩りに反対する急先鋒として立ち上がった。
ワイラーは有名監督やスター達(カーク・ダグラス、ジュディー・ガーランド、フランク・シナトラ、ハンフリー・ボガード、キャサリーン・ヘップバーン、ジーン・ケリー)とともに抗議団体を設立。思想と言論の自由を保障する憲法に反するとして抗議を呼びかけた。しかし事態は一変。
1947年11月、アメリカ下院はトランボ達、ハリウッド・テンが証言を拒否したとして議会侮辱罪を可決。すると、なんと映画製作者協会は赤狩りへの協力を表明したのだ。
◎映画製作者協会 エリック・ジョンストン会長
「ハリウッド・テンが共産主義者では無いと宣言しない限り誰であろうと雇用しない」。トランボらハリウッド・テンは、キャリアの絶頂期に業界を追放された。
非米活動委員会に逆らえば有名スターでも解雇される。社会的に抹殺される恐怖。ワイラーの信じた憲法の理念は踏みにじられた。
1949年、ソビエトの原爆実験成功でアメリカの軍事的優位が脅かされる。米ソ冷戦の下、赤狩りは激しさを増していき、その中心にいたジョセフ・マッカーシー上院議員の名前からマッカーシズムと呼ばれるようになった。
ハリウッドでも共産主義者のブラックリストが作成され、仲間を裏切り密告する者、偽証する者さえ現れ、300名以上の映画人が追放された。
しかしトランボは、脚本家の仕事を捨てる事はなかった。架空の名前で作品を執筆し続けたのだ。

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赤狩りの嵐が吹きすさむ中、トランボが大作映画を狙い書き上げたのが「ローマの休日」だった。トランボは、親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借りる。ハンターが自分の名前を使わせる事はとても危険な事だったことは想像に難くない。
親友の力を借りて映画化を目指した「ローマの休日」に目を止め、監督に名乗りを上げたのがウィリアム・ワイラーだった。当時すでにハリウッドを代表する名匠だったワイラー。アカデミー監督賞ノミネート12回、受賞3回という記録は未だに破られていない。

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彼は、映画のタイトルに不思議な言葉をクレジットしている。
「撮影そして編集のすべてをローマで行った」。当時、スタジオ撮影が常識だったハリウッドで、「ローマの休日」はハリウッド映画史上初の全編海外ロケで制作された映画だった。

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当時、駆けだしの女優だったヘップバーンをアン王女役に抜擢したのもワイラー。ワイラーが監督でなければ「ローマの休日」はローマで撮影されてはいなかった。
監督となったワイラーは、映画会社の製作条件を次々と覆して行く。
まずは主演俳優の変更。当初の構想ではゲーリー・クラントとエリザベス・テイラーだった。しかしワイラーはグレゴリー・ペックを起用。ワイラーが代表だった赤狩りの抗議団体にいち早く参加したのがグレゴリー・ペックだったからだ。
アン王女役には新人をオーディションで選ぶことにした。そこに現れたのがオードリーだった。
オードリー・ヘップバーンは終戦の1年ほど前、1944年頃、ファシズム政権下で秘密裏にレジスタンスを支援した少女だった。
とりわけワイラーがこだわったのがローマでの撮影だった。スタジオ撮影を条件にしていた映画会社もワイラーの粘りに譲歩。その代わり予算の関係でモノクロ映画になった。
ワイラーはなぜカラー映画を諦めてまでもローマロケにこだわったのか?それは、赤狩りによりハリウッドから追放された仲間達と仕事が出来る唯一のチャンスだったからに他ならない。

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1952年 猛暑のローマで撮影開始。スタッフのほとんどはイタリア人。ワイラーは信頼のおける人物だけをローマに呼び寄せた。プロデューサーでワイラーの右腕、レスター・コーニッグもその一人。前年、赤狩りのブラックリストに載り業界を追放された男だ。

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そんなワイラーが自らシナリオに加えたシーンがある。嘘をついた者は手を失うと言う「真実の口」でのシーンだ。実はペックの演技はその場のアドリブ。オードリーの自然な反応を引き出すために監督が仕組んだ演出だった。

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◎監督ウィリアム・ワイラー
「このシーンを映画のどこかに入れなければと思ったんだ。二人の人間が互いに嘘をついている物語だからね」
1945年、 「ローマの休日」公開の翌年、全米に反共ヒステリーを巻き起こしたマッカーシーは、その強引なやり方が批判され失脚。赤狩りの嵐も納まって行く。しかしブラックリスト入りしたハリウッドの映画人の多くは映画界に復帰できなかった。
そんな厳しい現実の中でもダルトン・トランボは諦めなかった。
1960年、彼が55歳で書き上げた「栄光の脱出」を実名で発表。非国民のレッテルを貼られてから13年後の事だ。米ソ冷戦の雪解けの時代でもあったその年、ソビエトとの文化交流で上映された映画が「ローマの休日」だった。試写会には3万人の観客が押し寄せたという。
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1993年、映画公開40周年を記念してアカデミー選考委員会はトランボにオリジナル・ストーリー賞を授与。夫人がオスカーを手にした。1976年にダルトン・トランボはすでに他界していた。

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2003年、映画「ローマの休日」公開50周年を記念して、ついに作品にトランボの名前がクレジットされた。
トランボは後年、赤狩りの時代を振り返りこう答えている。
「あの時代に悪漢も英雄も聖人も悪魔もいなかった。みな長い悪夢の時代の犠牲者だったのだ」

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