薫の野郎猫的日常
2017年08月15日 (火) | 編集 |
「国のため、愛する人のため身を投げ出した若者の魂は美しい、敬うべきだ」と仰る方は、生まれた時から戦争を知らず、民主主義をお腹いっぱい謳歌されていること、当時、国がどのようなイデオロギーで、若者たちがどのような教育を受けていたかを綺麗に無視されている。

★あとおれが戦争行きたくないって意見にコメントに「だったら日本からでていけ!」とか「お前は朝鮮人か!」とか「お前みたいなやつ黙れ!」って意見あったのみて、この声が、戦争漫画でよくみる「この非国民が!」かと。そーいうやつから順番に戦闘機に乗せる法案を提案したい。

特高に行く直前に撮った写真でなぜ彼らはあんな輝く笑顔を見せられるのか?お国のため死ぬことが誉れという教育を受けて育っているからじゃないの?

★私の父は予科練の生き残りでしたが、天皇陛下のために死ぬことに何の疑問もなかったと言ってました。全面的に信じていいのかどうか、もはや確かめようもありませんが、そういう時代だったからと、たびたび言ってました。

あの時、国のため、愛する人のため身を投げ出した若者がもし、今のこの時代に生まれ、今の教育を受けていたとしても、あの日と同じことをしたかどうか…もしかすると真逆のことを言い、まったく反対の行動をしてたかもしれないとも思うのです。

私の父は幼い頃を満州で過ごし、熊本に引き揚げてすぐ長崎に働きに行き、そこで被爆しました。しかし、父は満州時代も被爆のこともほとんど口にすることなく、次世代に「なにか」伝えることなく亡くなりました。これもまた「そういう時代」だったからでしょう。でも「そういう時代」ってどういう時代? 

★「そういう時代」について正確に語ることは当事者でも難しいでしょう。そういう概念に過ぎないものと思います。

だったら「そういう時代」ってひとくくりで済ませちゃいかんと思うのです。一言で済ませられることじゃない気がします。だって「そういう時代」がどういう時代だったか、今まで誰も説明できた人はいないのですから。

お願いです。「そういう時代」ってどういう時代だったか、どなたかわかるように教えてください。

母方の父の仕事の都合で台湾で育った母は、台湾とは比較にならないほど貧しい、匍匐前進しながら機銃掃射の弾をよけながらの畑仕事の行き帰り、熊本に帰ってきてからの命がけの戦中戦後の想い出を少しばかり話してくれた。そのほんの少しばかりの話だけでも、十分、子供心にうなされそうになるような中身だった。(でもその中で祖母が作ってくれた太い手打ちうどんを男兄弟と競ってどんぶりで、呑みこみながら食べた話は今も美味しそうだと思う。)(母は作らなかったが、祖母の家に遊びに行くと季節ごとに作ってくれる、台湾仕込の粽ぽいせいろで蒸した鶏と牛蒡と人参、生姜が効いたもち米、鶏と生姜の効いた汁物の美味しさは今も覚えている)

無言を通した父、少しばかりの想い出話を聞かせてくれた母。どちらにしても饒舌ではなかったし、お国のために命を捧げることが尊いとも、無駄死にだったとも一度も口にはしなかった。でも彼らの言葉少ない中に、喜怒哀楽のすべてがまじりあっているような気がします。

私は、この平和な時代に生まれ育ったことに感謝しています。よかったと思います。戦争は嫌だし、お国のためじゃなく自分のために生きて死にたい。この国の為政者が、大人たちが、今のままの世界を子供たちに残せるよう、戦争をしないよう、巻き込まれぬよう、「そんな時代」に戻らぬよう、叡智と知恵を尽くしてくれることを願う。「こういう時代」を壊してくれるな。


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