薫の野郎猫的日常
2017年12月31日 (日) | 編集 |
藤城清治さんの2017年プレミアムカレンダーも無事最後まで使い切りましたので、カレンダーが入っていた箱に頂戴した藤代さん直筆「子猫のブーちゃん」入りサインを切り取り額装いたしました♥

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我が家の家宝♪ 


2017年12月31日 (日) | 編集 |
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この1年、
拙ブログ&千太組構成員と同居人と親しく接していただきありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆々様もどうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

幸四郎
六輔
七海
九十
万里
薫@千太組

2017年12月29日 (金) | 編集 |
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私の中では一番美味しいと思う、奈良の柿の葉すし「山の辺」さんから、今年も年末のこの季節限定の紅葉すしが届きました。一時期の天候不良で紅葉がなかなか進まず、と店主からお聞きしていたので正直なところ今年は諦めていたのですが、到着してドキドキしながら開けてみて驚きました。こんなに美しいお寿司!!嬉しいし幸せだし、日本の古都の寒い季節に頂く自然の恵みをお腹いっぱい堪能したいと思います。頂きます♪ 


2017年12月28日 (木) | 編集 |
門松や注連縄などの正月飾りは「松迎え」が12月13日だから、それ以降ならいつでもOK。「二重苦」の明日12月29日より前、つまり今日28日までに終えるのがベスト。

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我が家は猫対策で毎年、こうやって「音入れ」でひっそり祝います(笑)


2017年12月27日 (水) | 編集 |
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26日のブログで少し触れた体調不良の猫は六輔です。24日から白い泡に血が混じってピンクになった胃液や、食べたものを繰り返し吐くようになっていました。皮下輸液して様子観察しておりましたら、24日と25日は食欲がなかったけど、26日から少量ながら食べるようになりました。が、また6時間後に吐く…そしてしばらくしてまた少量つまんでまた吐く…白い泡の胃液も1日1回は必ず吐く…が止まらない、今朝も白い泡を1回吐いたので、休診日明けの今日、受診してきました。

正月休み前の病院はめちゃ混み!それもわんこばかり。その上、超多忙の主治医・院長先生の代わりに問診するインターンの若者が知ったかぶりするわ、偉ぶるわ、まったく既往症を把握・理解していないわ、こちらから過去の診療記録詳細を説明すると、「あ、それってうちじゃなくて、ほかの病院で処方されたんでしょ?」とか「その処置や検査ってうちじゃないですよね?」とか恐ろしく失礼な発言の連発でキレる寸前。休診時の急変で深夜往診専門病院にかかったら翌日必ず診療報告書持参で受診してるし、深夜往診以外の病院にかかってないし!!あんたがほかの病院で受けたって邪推した処方も処置も検査もぜ~~~~んぶ、あんたが働いてるこの病院でやったものだよ!!診療過程、カルテに書いてないのか?あ”~~~もぉ!この人じゃ埒あかない!

結局、待ってる患者さん多数のため、こちらからリクエストした一連の検査のため、お預かり。夕方お迎えとなった。

2010年、オープンしたてのこの病院に転院。当時はガラガラで、それも手伝って往診とか深夜診療とかも気軽にやってくれた。「患者さんをひっきりなしに診ているときの疲れは全く気にならないんですけど、こう暇だといろんな意味で疲れて心身ともに堪えます。」って弱々しく微笑んでた先生が、今じゃ超多忙。いいことではあるけど、インターンの頼りなさを見るにつけ、最初から付き合ってきた私としては複雑な心境です。

ま、それだけダメ飼い主、バカ飼い主が多いってことの裏返しかもと思う。獣医師は飼い主が育てていくもんだという持論を持ってるんだけど、今日も、持参してきた今までの診療記録や検査結果用紙等を見ながら説明する私にビックリするインターンを見てると、どれだけダメでバカな飼い主と付き合ってるか手に取るようにわかって可哀そうになってきちゃったよ。

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今しがたお迎え&検査結果聞きに行ってきました。おかげさまで、エコー検査で、亡き寿三郎と同じ片腎未形成で機能停止&もう片方の腎臓はシュウ酸結石の六輔、機能している方の腎臓がまた一段と肥大しているのがわかるから、いつかは寿三郎と同じ最期を迎えるのは確実なので、今後、その点はしっかり経過観察するとして、血液検査では今回の体調不良の原因として覚悟していた腎臓、膵臓等は全く問題なし。レントゲンで映ってた、滞り気味の固い便が一因かとも思うので、吐き気止め・整腸剤・消化剤の注射&お薬処方してもらい、無事解放されました。

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ぶつくさ言いながらでもインターン君を育てていかにゃならんのだろうけど、でもやっぱり、院長先生だと話が速いよ。

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イライラを察してか、今夜は九十さんがお酌してくれるそうです♪

※追記
野郎どもがお世話になってるO病院、嘔吐で受診すると相変わらず膵炎検査が好きで、数年前、染も六も、あまりにしつこいから仕方なくお付き合いでラボで検査してネガティブで、染なんか開腹して生検まで受けてネガティブで、今日も拒否したのに、なのに今じゃ病院の血液検査でわかるようになったからと膵炎の数値まで勝手に計ってからに!血液検査って検査項目が1項目増えればそれだけ値段が高くなるんだよ。ただじゃないのよ!それに、もし膵炎だとしても特効薬はないからステロイドとかでごまかすしかないし。ステロイドは副作用覚悟の薬だし。治らないわ、副作用覚悟だわじゃ受けても仕方ない。治る病ならどんな手段もやるだけのことはするけど、治らない病気に対しては入院や積極的延命は望まず、最低限の対処療法だけでゆっくり自宅で生活させて看取る、って言ったじゃない!だから膵炎検査はしないってことで納得させたのに!で、結果はやっぱり今日も膵炎ネガティブだし!!A院長もしかしたら膵炎のトラウマでもあるんじゃないかな。あの異常な執着ぶりはただ事じゃないですもん!!こっちは大迷惑。失礼な口を利く知ったかぶりのN君、インターンだと思ったら、病院のHPじゃ恐ろしいことにいつの間にやら獣医になってるし…あのしったかブリブリじゃ、神経細かすぎのA院長が必ずバックアップ&見直ししなきゃ、いつか、きっと大誤診しでかすに違いない!怖すぎる!!

2017年12月27日 (水) | 編集 |
★テレビ初取材!バブル時代の”闇経済の帝王”が告白するマネーの魔力 「ガイアの夜明け」で徹底取材|読むテレ東:テレビ東京 http://www.tv-tokyo.co.jp/yomu/business/entry/2017/015364.html

今夜の「ガイアの夜明け」で元グッドウィルの折口雅博氏の今を伝えていました。折口氏は賛否両論ですが、元コムスンの社員として言えることは、15年の介護職人生の中でコムスンほど最先端の介護技術と知識に関する情報発信と実践を職員に供していた企業を他に知りません。職員も上昇志向ありましたしね。エマニチュードやpcc等の知識や技術も名称は違っていても、ニチイの「アイリス」とグッドウィルGの「コムスン」によって15年前にすでに確立されており、理念は全く同じ。彼らから厳しく叩き込まれ、私の介護職としての背骨になってます。 


2017年12月26日 (火) | 編集 |
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クリスマスも終わり、
さ~て、あとは角に松を立てて、
難を払って、
年神様をお迎えするばかり!!

しっかし…
先日も猫友さんと話してたんだけど、なぜに休診日に具合が悪くなる?ま、緊急性はなさそうだし在宅輸液して様子見ながら明日朝イチでもいいけどさ。猫入りリュックキャリーを背負って、用意して外に出た瞬間に休診日だと思い出し、すごすご引き返す冬の朝…


2017年12月25日 (月) | 編集 |

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クリスマスの奇跡があなたの心を暖かさと愛で満たしますように!


メリークリスマス♥

from

幸四郎

六輔

七海

九十

万里

薫@千太組

2017年12月22日 (金) | 編集 |
冬至ですね。
今年もあと9日。
冷え込んでますので床暖つけっぱなし。

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他の猫たちは普通にダンボールベッドだったり、日向ぼっこだったり、椅子の上で寛いでたりしてるのに…

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我が家イチの寒がりは「なんちゃってアメショ」の七海。

常連さんはご記憶にあると思うんですが以前、冬場限定でリビングに敷いてたホカペに潜って中度の低温火傷になってしまったことから、今じゃ床暖のみ。

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他の猫たちもホカペに潜ってたのに七海だけ低温火傷なんて…どれだけ皮膚が弱いんだ。

★韓国のサウナ施設の火事。1Fの駐車場の車が燃えてこうなったとか…我が家のマンションも同じような構造なんだよなぁ。他人事とは思えません。世田谷野沢でも火事が起きたばかり。連日のカラカラ天気で東京も記録的に乾燥してるので火の用心!


2017年12月22日 (金) | 編集 |
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ロッテチョコの「冬季限定」強力3姉妹(笑)ラミー、バッカス、そしてカルヴァドスをゲットして興奮したのか、昔の「リキュール」の記憶が…フラッシュバック♪熊本下通の「スイス」のサバランは「リキュールマロン」と言って酔っぱらった父の手土産の定番だった。緑色のきらきらした銀紙に包まれた、リキュールがドボドボ、滲みきらないのが溢れて上から押したらじゅわっと出てくる。子どもは生クリームとクラッシュ和栗とで酔っぱらって胃袋ひっくり返る具合(笑)あれは強烈だったなぁ。で、急に懐かしくなって検索かけたら今も健在。それどころかオンラインショップまで展開してた♪リキュールマロンも販売してるよ!近いうちにオーダーしてみようっと♪

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http://swiss.shop-pro.jp/


2017年12月20日 (水) | 編集 |
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今気が付いた。マンションのお向かいさんのお宅は地植えのツリーだ♪クリスマス仕様の色とりどりのオナメントが飾られている。よそ様のことながらウキウキするね。夜はイルミネーション点灯するのかな?今まで全く気が付かなかったということはイルミネーションなしかな?今夜チェックしてみましょ♥

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仙台出身の仕事先のお客様のご家族から年末のお礼として、仙台市太白区の老舗 九重本舗 玉澤の「 晒よし飴」同じく「霜ばしら」を1缶ずつ頂戴いたしました。(こっそり検索かけたら目の玉飛び出るくらい高級なお菓子だった。)これって機械を一切使わず、ひとつひとつ職人さんの手作りらしいです。だから注文して完成まで2~3週間は優にかかるらしい。先ずは晒よし飴からいただきます!見た目からしてなんだか生まれて初めてのお菓子です。お味はカルメラ焼き(カルメ焼き?)っぽい上品な砂糖菓子のお味です。口に入れた途端に溶けてなくなります。おいしい♪


2017年12月18日 (月) | 編集 |
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ボロ市で購入した群馬県川場の「のむヨーグルトKAWABA」。
そのカスピ海ヨーグルトに似た粘りとコク、そのあまりの美味しさに、検索かけたらお取り寄せ可能と知り早速オーダー!長いお付き合いになりそうです♪
ヨーグルト好きの皆様に、これは是非ともお勧め!
騙されたと思ってお試しあれ♥
https://www.denenplaza.co.jp/shop/


2017年12月16日 (土) | 編集 |
※イシグロさん:記念講演全文(1)「20歳までにロックスターになるつもりだった」 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171211/mog/00m/040/002000c
※イシグロさん:記念講演全文(2)「帰らなかったことで日本は鮮明で個人的なものに」 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171211/mog/00m/040/003000c
※イシグロさん:記念講演全文(3)「大戦の記録と教訓、次の世代に伝える義務がある」 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171211/mog/00m/040/004000c
※イシグロさん:記念講演全文(4)「感情こそが境界や溝を超えて共有できる」 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171211/mog/00m/040/005000c
※イシグロさん:記念講演全文(5)「分断が深まっている時だからこそ、もっと多様に」 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171211/mog/00m/040/006000c

★長崎市生まれの日系英国人作家、カズオ・イシグロさん(63)は7日午後5時半(日本時間8日午前1時半)から約45分間にわたって、ストックホルム旧市街にある、スウェーデン・アカデミーのグランド・ホールでノーベル文学賞受賞を記念する講演を行った。 
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  イシグロさんはこの日、同アカデミーのサラ・ダニウス事務局長の案内で講演会場に入った。演壇に立ったイシグロさんはまず「私は今、年に2回しか開かないというドアを通って来ました。1回目は、事務局長が10月にノーベル文学賞の受賞者を発表する時で、2回目は受賞者が記念講演をする時です。その2人目になったことは光栄ですが、ドアには鍵がかかってしまったので、外に出られるか心配です」と笑わせ、約500人の聴衆をなごませた。
 英語による講演全文の日本語訳は以下の通り。【翻訳・佐藤由紀、鶴谷真】

記念講演全文(1)「20歳までにロックスターになるつもりだった」
「私の20世紀の夜、そしてその他のささやかな突破口の数々」
 あなたがもし、1979年の秋に私に出くわしたとしたら、私が何者なのか、人種は何なのか、判断するのが難しかったかもしれません。私はその時24歳でした。容姿は日本人に見えたでしょうが、あのころ英国にいた日本の男性とは違って、髪を肩まで伸ばし、垂れ下がった強盗のような口ひげを生やしていました。私が話す英語には、イングランドの南部で育った人特有のアクセントがあり、時代遅れのヒッピー時代の言い方が混じるときもあったでしょう。私たちが話をすることになったら、話題はオランダのトータルフットボーラーズやボブ・ディランの最新アルバム、あるいは私がロンドンでホームレスの人たちと過ごした1年間などについてだったかもしれません。あなたが日本を話題にし、日本の文化について質問すれば、私は5歳の時に日本を離れて以来、休暇を含めて一度も日本へ帰っていないので日本についてはよく知らないといって、多少のいらだちを見せたかもしれません。

 この秋、私はリュックサックを背負い、ギターとポータブル・タイプライターを持って、英国ノーフォークのバクストンという、古い水車があり、畑に囲まれた小さな村に着きました。イースト・アングリア大学大学院の1年間の創作コースに入学を認められたからです。大学はバクストンから約16キロ離れたノーウッチという大聖堂で有名な町にありました。車はなかったので、朝、昼、夕の3便しかないバスで大学へ行かなければなりませんでした。すぐに分かったのですが、これは大した問題ではありませんでした。大学には多くても週に2度ほど行くだけでよかったからです。妻に逃げられたばかりという30代の男が住む小さな家に部屋を借りました。男からすれば、その家はきっと壊れた夢の亡霊でいっぱいだったのでしょう。あるいは、単に私を避けようとしたのかもしれません。ともかく私は何日も、男と目を合わせませんでした。言ってみれば、ロンドンでの騒々しい生活の後、私はここで、自分を作家にしてくれることになる、とてつもない静けさと誰にも邪魔されない孤独に身を置くことになりました。

 実際、私の小さな部屋は作家が使いそうな、古典的な屋根裏部屋でした。天井は閉所恐怖症になりそうに傾斜し、背伸びすれば、窓から耕された畑が遠くまでなだらかに続くのが見えました。部屋には小さな机があり、タイプライターと電気スタンドを載せるといっぱいでした。床にはベッドではなく、工業用の四角い発泡スチロール状の物が置かれ、ひどく寒いノーフォークの冬の夜でも寝汗をかいていました。私はこの部屋で、夏の間に執筆した短編2本を新しいクラスメートに見せられるほどのものか、注意深く検討しました(私たちのクラスは総勢6人で2週間に1度、授業で顔を合わせていました)。その時点で私が書いていたのは、せいぜい散文の草稿と、入学願書として提出したラジオドラマの脚本ぐらいで、その脚本もBBC放送から却下されたものです。実を言うと、私は20歳までにロックスターになるつもりで、作家になろうと考えたのはつい最近でした。その時読み返していた2本の短編は、入学が許可された後にあわてて書いたもので、ひとつはうす気味悪い自殺の取り決め、もうひとつは、私がコミュニティー・ワーカーとしてしばらく住んでいたスコットランドの路上でのけんかについてでした。いずれもよい出来ではありませんでした。思春期の青年が飼いネコに毒を盛るという、ほかの2編と同じく当時の英国を舞台にした話も書き始めました。小さな部屋で暮らし始めて3、4週間たったある晩、私は、新たに湧き起こった、急かされるような激しい思いで、日本のこと、自分が生まれた長崎の、第二次世界大戦末期のことについて書いている自分に気づきました。

 これには驚きました。今なら、複数の文化的伝統を持つ意欲的な若い作家が自分のルーツを探る作品を書くことはほとんど本能のようなもの、という雰囲気が広く行き渡っています。でも、それよりずっと前でした。英国で「多文化主義」の文学が開花するのはまだ先でした。サルマン・ラシュディは、絶版となった本を1冊出しただけで、知られてはいませんでした。当時の指導的な若手作家は誰かと聞かれたら、人々はマーガレット・ドラブル、上の世代ではアイリス・マードック、キングズリー・エイミス、ウィリアム・ゴールディング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズを挙げたかもしれません。ガブリエル・ガルシア=マルケス、ミラン・クンデラ、ボルヘスといった外国人作家は限られた人々に読まれていただけで、読者家にとってもあまり意味のない名前でした。

 これが、私が初めての日本を舞台にした小説を書き上げ、新しい重要な方向を発見したという気持ちになったころの文学的な雰囲気です。私はすぐに、日本の作品を書くという方向転換が、自分を甘やかしていると見られないだろうか、すぐにでも「正常な」主題に戻るべきではないのかと考え始めました。しばらく迷った末に私は自分の小説をみんなに見せて回り、そのとき、クラスメートたち、マルコム・ブラッドベリ、アンジェラ・カーターなどの教師たち、作家、ポール・ベイリーらが確信をもって励ましてくれたことを、今も感謝しています。あれほど肯定的に反応してくれなかったら、私は二度と日本を題材にした小説は書いていなかったでしょう。そんなわけで、私は部屋に戻って、書いて、書いて、書きまくりました。1979年から80年の冬から春にかけ、私は5人の同級生、朝食用のシリアルとラムキドニーなど命の糧を買う食料品店の店員、2週間に1度、週末に訪ねて来る当時のガールフレンドのローナ(現在の妻です)を除いて、ほとんど誰とも口をききませんでした。バランスのとれた暮らしではありませんでしたが、この数カ月間で、原爆投下後の復興期にあった長崎を舞台にした最初の長編小説「遠い山なみの光」の半分を何とか完成させます。そういえば、この頃、舞台が日本ではない短編小説を考え、すぐに興味を失ったこともありました。

 私にとって決定的な数カ月でした。あの時がなければ、私は作家になっていなかったでしょう。あれ以来、当時を思い出して、たびたび自分に尋ねました。あの時の自分に何が起きていたのだろう? あの奇妙な情熱は何だったのか? 私はあの時、急いで残さなくてはならないという気持ちから、あんなふうに行動したというのが、私の結論です。その説明をするには少し時間を戻さなくてはなりません。

記念講演全文(2)「帰らなかったことで日本は鮮明で個人的なものに」
 1960年4月、私が5歳の時、両親とともに英国に渡り、サリー州ギルフォードに移り住みました。ロンドンの南、約48キロにあって「ストックブローカー・ベルト(株式仲買人が多く住む地域)」と呼ばれる裕福な町でした。海洋学者の父が英国政府の招きで働くことになったからです。ちなみに、父が後に発明した機械は今、ロンドンの科学博物館の常設展示品になっています。

 私たちが英国に着いて間もなくの頃に撮影した写真には、既に失われた英国が写っています。男性はVネックセーターの下にネクタイを締め、自動車にはステップがあり、後方にはスペアタイヤが取りつけてありました。ビートルズをはじめ、性革命、学園闘争など、英国で「多文化主義」が始まろうとしていましたが、私たちが初めて出会った英国でそれを想像するのは難しいことでした。フランス人やイタリア人と顔を合わせるのでさえ十分に珍しいのですから、日本人に会うことなどほとんどあり得ませんでした。

 私たちは、舗装道路と原っぱの境の袋小路に建つ12軒の家のひとつに住みました。近くの農場へは5分足らずで行けました。道の先にはたくさんの乳牛がいて、牧草地から牧草地へとのろのろ歩きまわっていました。牛乳を配達したのは馬車でした。英国へ来て最初のころの鮮明な記憶はハリネズミです。トゲがあって、夜行性の可愛らしい動物で、田舎でよく見ました。夜の間に自動車にひかれたハリネズミが朝露のなか、きちんと道路脇に重ねられ、ゴミ回収を待つ光景を覚えています。

 近所の人はみな教会へ行っていました。私がその人たちの子どもと遊んでいる時、子どもたちが食事前にお祈りを唱えるのに気づきました。私は教会の日曜学校に通い、しばらくして教会の聖歌隊で歌うようになり、10歳になるとギルフォードで初の日本人のヘッド聖歌隊員となりました。私は地元の小学校に通い、そこではたったひとりの、おそらく学校史上初の英国人ではない生徒でした。11歳になると、近くの町のグラマースクールに入学し、毎朝、ロンドンのオフィスへ向かう大勢のピンストライプの背広姿の男性たちと同じ列車で通学しました。

 この頃までに、私は英国の中産階級の男子に当時、必要とされた行儀作法をすっかり身につけていました。友人の家に行った時に大人が部屋に入って来たらすぐに立ち上がらないといけないと知っていました。食事中にテーブルを離れる前に許可を求めなくてはならない、ということも学んでいました。近所でたったひとりの外国人少年だったので、ある意味で地元の有名人のように扱われました。子どもたちは、知り合う前から私のことを知っていました。道路や商店などで見ず知らずの大人に名前で話しかけられたりしました。

 あの頃を振り返り、日本を宿敵とした戦いが終結して20年もたっていないことを思う時、英国の普通の共同体が私たち一家に心を開き、寛容な心づかいで接してくれたことに驚かされます。第二次世界大戦を切り抜け、戦後の英国を見事な福祉国家につくり上げた何世代にもわたる英国人に対し、今日まで愛情と敬意と関心を持ち続けてきたのは、この頃の個人的体験があるからです。

 その一方で、日本人の両親と暮らす自分の家では別の人生を送っていました。家にはよそとは違う規則があり、期待されることも言葉も違いました。両親の当初の考えは、1年後あるいは2年後には日本に帰るだろうということでした。実際、英国へ来てからの最初の11年間、私たちはずっと「来年に」帰国すると言い続けてきました。両親はそのため、自分たちは移住者ではなく訪問者だと考えていたようです。土地の人々の奇妙な風習などを話題にするとき、自分たちには、それに従う義務はないというような口ぶりでした。それから長い間、いつか帰国して日本人として暮らすのだからという理由で、日本の教育に遅れないように、さまざまな努力がなされました。毎月、日本からマンガや雑誌、学習書などを詰めた小包が届くのが待ち遠しく、私はその全部をむさぼるように読みました。祖父が亡くなったからでしょう、10代のある時期から小包は来なくなりましたが、両親が昔の友人や親戚の話、日本でのさまざまな出来事を話してくれたので、日本のイメージや印象は途絶えませんでした。そして、私にはいつも記憶の倉庫がありました。祖父母のこと、日本に置いてきた大好きなおもちゃのこと、一家が住んでいた昔ながらの日本の家(今でも、ひと部屋ごとに思い出せます)、幼稚園、路面電車の停留所、橋のそばにいた怖いイヌ、床屋の大きな鏡の前の自動車のハンドルが付いた男の子用の椅子まで、不思議なほどたくさんのことをはっきりと記憶しています。

 つまり、虚構の世界を創造する作家になるずっと以前から、私が何らかの形で属した日本という土地を、ある意味でアイデンティティーや自尊心を得ていた場所を、頭の中で一生懸命につくりながら育ったということになります。この時期に日本に帰らなかったことで、私が思い描く日本はより鮮明で個人的なものになりました。

 そこで必要になったのが保存することだったのです。というのも、その時はしっかりとは意識していませんでしたが、20代半ばにいくつかの重要なことに気づきました。「私の」日本は、飛行機に乗って行ける現実の場所ではないこと、両親が話したり、幼い頃に私が記憶したりしていた「私の」日本の暮らしは1960年代から70年代にかけて大半が失われてしまったこと、私の頭の中にあった日本は、子どもが自分の記憶、想像、推測をもとに作った感情の産物である--と認め始めていたのです。何よりも重要だったのは、年を取れば取るほど、私が育った日本という「私の日本」がぼやけてくるのを認識したことでしょう。

 「私の」日本はかけがえのないものであると同時にとても壊れやすく、ほかのだれも検証はできないのだ--という気持ちが、ノーフォークの小さな部屋で私を突き動かしたと、今なら分かります。私がやったのは、私が覚えていることが消えてしまう前に、私が知っている日本の特別な色彩や習慣、礼儀作法、尊厳、欠点などすべてを書き残しておくことでした。小説を書いて「私の」日本をつくろう、安全なところにしまっておこう。そうすれば、本を指さして「そう、この中に『私の』日本がある」と言えるのではないかと思ったのでした。

     ◇

 それから3年半たった1983年の春、妻のローナと二人でロンドンの最も高い丘のひとつに建つアパート最上階の2部屋だけの家に住んでいました。近くにテレビ塔があって、家でレコードを聴こうとすると、幽霊のようなラジオ放送の声が散発的にステレオを侵略します。ソファやひじかけ椅子はありませんでしたが、マットレスふたつを床に置いて、その上にクッションを置いていました。大きなテーブルがあり、日中は私がそこで原稿を書き、夜はそこで夕食をとりました。豪華な住まいではありませんでしたが、ふたりとも気に入っていました。その前の年に私は最初の小説を出版し、短編ドラマの脚本も書いていて、英国のテレビ局での放送も間近でした。

 初めて書いた小説にはそれなりの誇りを感じていましたが、この年の春になって、納得できない気持ちに悩まされていました。問題はこうです。初めての小説と初めてのテレビ脚本が似すぎているのです。内容ではなく、方法やスタイルが、です。見れば見るほど、私が書いた小説が、会話とト書きで作られている脚本にそっくりでした。ある程度なら似ていても構わないでしょうが、私は小説という形でしかできないフィクションを書きたかったのです。テレビで小説と同じようなことが経験できるなら、なぜ小説を書くのか? 書き言葉という形の小説が、小説だけができること、ほかのメディアではできないことを提供しないで、映画やテレビに対抗して生き残れるのか?

 その頃私はインフルエンザで2、3日、寝込んでいました。最悪の時期を過ぎ、一日中寝ているような気分でなくなったとき、ベッドの間に挟まって、しばらくの間、体に当たっていた重い物を見つけます。それがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の第1巻でした。そうか、と思って読み始めました。熱がまだ残っていたせいでしょうか、序章と第1部「コンブレー」を読んだころには目がくぎ付けになりました。いくども読み返しました。文章そのものの美しさはともかく、私はプルーストがひとつのエピソードを次につなげる方法にぞくぞくしました。出来事や場面の順番は、一般的な時系列や筋ではありませんでした。関係のない連想や記憶の気まぐれによって、エピソードからエピソードへと展開する。どうして、ふたつのまったく違った瞬間が語り手の頭の中で隣り合っているんだろう、と不思議に思うことがよくありました。私はそこで突然、この自由でわくわくする方法を2作目の小説の構成に使えることに気づきました。ページの流れを豊かにしてくれ、画面では決してとらえられない人間の内面の動きを見せることができる方法です。もし語り手の連想や記憶によって話をつなげていけるなら、抽象画の画家のようにキャンバスにさまざまな形や色を置いていけるのではないか。2日前のことを20年前と並べ、読者にふたつの関係を考えてもらえるのではないか。そういう方法なら、自分や自分の過去に対する見方を覆っている何層もの自己欺瞞(ぎまん)を読者に見せることができるかもしれない、と考え始めました。

記念講演全文(3)「大戦の記録と教訓、次の世代に伝える義務がある」
 1988年3月、私は33歳でした。今や自宅にはソファがあり、私はそこに寝転んでトム・ウェイツのアルバムを聴いていました。その前の年、ローナと私はロンドンの南のおしゃれとはいえないけれど住みやすい所に家を買っていました。私は初めて自分の書斎をもちました。小さくてドアもない書斎でしたが、書類を広げても夜に片付けなくて済むのをうれしく思っていました。その書斎で私は3作目を書き終えたと思っていました。日本を舞台に2本の小説を書いたことで、私にとっての個人的な日本は以前よりは壊れにくくなっていました。実際、「日の名残り」と呼ばれることになる新作は極端に英国的だとみなされました。しかし、古い世代の英国人作家が英国を題材に書いてきた手法とは明らかに違います、私もそう望んでいました。こうした英国作家たちの多くが、英国的なニュアンスや関心事に親近感をもつ英国人を読者に推定していたようですが、私の方はそう考えないよう注意しました。その頃になると、サルマン・ラシュディやV・S・ナイポールのように、英国中心の考えや英国に特有の重要性などを意識しないで、より国際的で前向きな作家が登場していました。広い意味で彼らの作品はポスト・コロニアルといわれるものです。私もこうした作家のように、英国独特の世界を舞台にしながら、文化や言語の障壁をやすやすと越えられる、国際的に通じるフィクションを書きたいと思いました。私が書いた英国はある意味の神話的世界で、英国に来たことがない人をふくめ世界中の人々の想像の中に存在しているもの、と信じていました。

 「日の名残り」は、晩年を迎えた英国人の執事が、これまで誤った価値観を守って生きてきたこと、人生の最も大切な年月をナチス支持者の主人に仕えてきたこと、倫理的そして政治的に責任を取らなかったことに気づき、人生を無駄にしたという思いに至る物語です。さらに、この主人公は完全な執事になろうとして、人を愛することと、ひとりの好きな女性に愛されることを、自分に禁じてもいました。

 何度も原稿を読み返し、そこそこには満足していました。しかし、何かが足りないのです。

 ソファに横になってトム・ウェイツの歌を聴いていたのはそんな時でした。「ルビーズ・アームズ」という歌でした。皆さんの中に知っている方がいるかもしれません(ここで私が歌ってみようかとも考えていたのですが、やめました)。これは、愛する女性がベッドで寝ているうちに去って行こうとする兵士の気持ちを歌ったバラードです。早朝、駅まで行って列車に乗る。何も特別なことはありません。それなのに、胸の奥の感情を表すことに不慣れな、いかにも無愛想なアメリカ人の男の声で歌われます。曲の半ばまできて、男が自分の胸が張り裂けそうだと歌います。聴いている方は、ここで耐え難いほどに感情が高ぶります。男の感情そのものと、感情を表に出すまいとしてきた彼の強い抵抗力がぶつかり合って、ついに感情があふれ出る--という緊張感のためです。トム・ウェイツは、みごとなカタルシスをこめて歌い、男がずっと一生かけて守ってきたタフガイとしての禁欲主義が、あまりにも大きな悲しみのために崩れてしまったのだ--と聴いている人に感じさせます。

 トム・ウェイツの歌を聴いて、私にはまだやるべき仕事があると気づきました。あまり考えないままに、前から決めていたのは、私が書く英国人執事は、自分の感情を出さないよう自分を防衛し、最後の最後まで、自分からも読者からも感情を隠し切るということでした。でも、その決心を変えなくてはなりません。物語の最後のほんの一瞬、それもどこがよいのか慎重に選んだうえで、執事の心のヨロイにひびを入れ、その下にとてつもなく悲劇的な感情があることを見せなくてはならないと思いました。

 今回に限らず、私は、歌い手たちの声から何度も重要なことを学んできました。歌詞というより、歌っている人の実際の声からです。人間の歌う声は、極めて複雑に混じり合う感情を表現できます。私の書くものはここ何年もの間、いくつもの面で、ボブ・ディラン、ニーナ・シモン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウェルチ、そして友人で共同作業者のステイシー・ケントをはじめとするミュージシャンから、影響を受けてきました。歌を聴きながら、「そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに」と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。

     ◇

 1999年10月、ドイツの詩人、クリストフ・ホイプナーが、国際アウシュビッツ委員会を代表して、ポーランドにある強制収容所跡を2、3日かけて訪問する旅に招待してくれました。アウシュビッツ・ユース・ミーティング・センターというのが私の宿舎で、それは最初に訪問したアウシュビッツの収容所とそこから3キロほど離れたビルケナウの収容所の間にありました。近くを案内してもらい、かつてその場所に収容されたことがある生存者3人にも非公式に会いました。私はその時、少なくとも地理的には、これまで私たちの世代に影を落としていた暗く暴力的なものの核心の近くに来ている、と感じました。ある雨の日の午後、ビルケナウへ行って、ガレキになったガス室跡の前に立ちました。不思議なことに、そこはだれも注意を払わず、面倒をみる人もいない場所で、赤軍の進軍を前にドイツ軍が爆破したまま放置されていました。ガス室跡は今や湿って壊れた板切れとなり、ポーランドの厳しい気候にさらされ、年ごとにさらに傷んでいくようでした。私を呼んでくれた人たちは、自分たちはジレンマを抱えているのです、と言いました。収容所跡は保存されるべきなのか? 次世代の人々に見てもらうため、アクリルのカバーなどで覆って保存すべきなのか? あるいはゆっくりと自然のまま朽ち果てさせてよいものか? これは、もっと大きなジレンマのメタファー(隠喩)に思えました。こうした記憶はどう保存すべきなのか? ガラスのドームをかぶせれば、悪と苦痛を象徴する遺跡を、博物館にあるようなおとなしい展示物に変えることができるのか? 私たちは何を記憶すべきなのか? いつになったら、忘れて先へ進んだ方がいいと言えるのか?

 私は44歳でした。その時まで私は、第二次世界大戦というもの、その恐怖や勝利などは両親の世代に属していると考えていました。ところが、そこで思ったのは、もうしばらくたてば、とてつもない大戦を実際に経験した人々がいなくなるということでした。そうすればどうなるのだろう? 私たちの世代が記憶という責任を負うことになるのか? 私たちは戦時中には生まれていませんでしたが、少なくとも戦争によって自分たちの人生が影響された両親に育てられました。物語を書く者として、今まで気づいていなかった義務があるのではないか? 私たちには、両親の世代の記憶や教訓を、できる限り次の世代に伝えるという義務があるのではないか。

 それからしばらくして東京で講演をする機会があり、そこでフロアから、次はどんなものを書くかという、いつも聞かれるような質問を受けました。具体的に言うと、この質問者から、私の小説には社会的、政治的な激動の時期を生きてきて、後に人生を振り返り、自分の暗い恥ずかしい過去と折り合いをつけられなくて悩むような人たちがしばしば登場する。これからも同じ領域を扱うのか、と聞かれたのです。

 まったく用意していなかった答えを口にしていました。「そうです。私はこれまで、忘れることと記憶することの間で葛藤する個人を書いてきました。でも、これから本当に書きたいのは国家や共同体が同じ問題にどう向き合うかというテーマです」。国家は、個人と同じように記憶したり、忘れたりするのだろうか? 個人と国家で、重要な違いはあるのだろうか? 国家の記憶とは一体、何なのか? どこに保存されるのか? どういう形で記憶され、どういう形で管理されるのか? 忘れることでしか暴力の連鎖を止めたり、大混乱や戦争を招きかねない分裂を止めたりができない時もあるのではないか? その一方で、意図的に記憶を喪失し、公正さが守られない地盤に、安定した自由な国家をつくれるのか? 私は質問した人に、こうしたことを書く方法を見つけたいのだが、残念ながら今のところ見つかっていない、と答えていました。

記念講演全文(4)「感情こそが境界や溝を超えて共有できる」
 2001年初めのある晩、ローナと私は(当時、住んでいた)ロンドンの北にある家の明かりを落とした居間で、まあまあの画質のビデオテープで「特急二十世紀」という1934年のハワード・ホークスの映画を見ていました。まもなく分かったのですが、題名の「20世紀」はちょっと前に過去のものとなった「20世紀」ではなくて、映画製作当時、シカゴとニューヨークを結んでいた有名な豪華列車の名前でした。ご存じのように、これは列車を舞台に、ブロードウェーのプロデューサーが、自分のところの売れっ子女優が映画スターになるべくハリウッドへ向かうのを阻止しようとして四苦八苦するドタバタ喜劇です。映画は、当時の偉大な俳優の一人、ジョン・バリモアの演技を中心に展開します。彼の表情、ジェスチャー、せりふには、皮肉や矛盾、自己中心性と一人芝居におぼれる男の醜悪さが表れていました。バリモアの演技はさまざまな点で見事なものでした。それなのに、物語が進むにつれ、不思議なくらい映画に入っていけなくなりました。初めは疑問でした。バリモアは好きな俳優ですし、ホークス監督の「ヒズ・ガール・フライデー」や「コンドル」など、他の作品も大好きでした。そして1時間くらいたった時、シンプルながら衝撃的な考えが浮かびました。

 小説や映画や演劇の多くの登場人物たちが、どんなに生々しく、どんなに否定しがたいほどの説得力があっても、感動できないことがたびたびあったのは、登場人物たちがほかの登場人物と結びついて、面白い人間関係をつくっていないからでした。次に思ったのは、自分の仕事についてでした。人物設定を気にするのはやめて、それぞれの関係にもっと目を向けるべきではないのか。

 列車はさらに西へ走り、ジョン・バリモアがますますヒステリックになったとき、私はE・M・フォースターが語った、有名な人物設定の二次元と三次元の違いについて考えていました。ある登場人物は、私たちを説得力をもって驚かせてくれるという事実によって、三次元の登場人物となる、とフォースターはいいます。そうすれば「丸く」なる、と。しかし、今思っているのは、もし登場人物のひとりが三次元で、ほかの人物がすべてそうでなかったらということです。フォースターはまた同じ講演で、小説の中から筋の一部を、まるでくねくねした虫のようにピンセットで抜き取り、そこに明るい光をあてて詳しく調べるというユーモラスなイメージで説明を試みました。私もそれと同じように、物語を交差する人間関係に、明るい光を当てられないだろうか? 書き終えた小説やこれから書こうとする小説などの仕事で同じことができないだろうか? たとえば寄宿舎の指導者と生徒との人間関係を考えてみるとする。ふたりの関係は十分に洞察力に富み、新鮮だろうか? あるいは、じっくり見ていれば、ほかの何百という良くも悪くもない小説と同じように、使い古されたステレオタイプの関係だとわかるかもしれない? ライバルでもあるふたりの友人たちの関係はどうか? ダイナミックか? 感情の共鳴はあるか? 発展していくか? 説得力をもって驚かせることができているか? 三次元になっているか? 私はここで突然、これまでの仕事のさまざまな場面で、どんなに修正してもうまくいかなかった理由が分かったと感じました。ジョン・バリモアをじっと見つめながら、語り口が革新的か伝統的かを問わず、良い小説には、私たちを感動させ、楽しませ、怒らせ、そして驚かせるような人間関係が入っていなければならない。もしかすると、これからは登場人物たちの関係に力をもっと注げば、登場人物が自分で人物設定をしてくれるのだろうかと思いました。

 いまここで話しことは、皆さんがご存じだったかもしれません。ただ、申し上げたかったのは、これは、作家人生のだいぶ後になって思い至ったものだということです。きょう披露してきたほかの例と同じく、今思えば私の転換点でした。その時から私は小説の作り方を変えました。例えば「わたしを離さないで」では、登場人物3人の関係を中心に据えよう、そうすればほかの関係もそこからおのずと展開していくだろう、と考えて書き始めました。

     ◇

 作家人生にとっての重要な転換点は、ほかのさまざまな職業と同じく、こんなふうにしてもたらされます。多くの場合、ささやかなみすぼらしいものです。その人だけに起きる新発見という静かな火花です。転換点はめったにやって来ません。来たとしても、たいていはファンファーレを鳴らしたりしないし、指導者や同僚が推奨してくれることもありません。多くの場合、もっと大きな音をたてる、もっと緊急の要請のように見えるものと、どちらが注意を向けてもらえるか、競わなくてはなりません。時には、広く行き渡っている知恵に反することを言ってくるかもしれません。でも、それが来た時には、大事なものなのだと認識できることが重要です。そうでないと、あなたの手のひらからこぼれ落ちてしまいます。

 私はここまで、ごくささいな個人的なことに重点をおいて語ってきました。というのも、それが私の仕事だからです。静かな部屋で文章を書き、別の静かな部屋、あるいはそれほど静かではない部屋でそれを読むだろう、ひとりとの関係をつくる。物語は人を楽しませることができます。時には教訓を与えたり、議論を提起したりできます。でも私にとって本質的に重要なのは、感情を伝えることです。感情こそが境界線や溝を超え、同じ人間として共有できるものだからです。物語の周囲を、出版産業、映画産業、テレビ産業、演劇産業など巨大な産業が、取り巻いています。しかし、物語とは結局、ひとりがもうひとりに語るものです。私にはそんなふうに感じています。分かってもらえるでしょうか? 皆さんも同じように感じておられますか?

記念講演全文(5)「分断が深まっている時だからこそ、もっと多様に」
 さて、現在のことです。最近になって私は、ここ何年もの間、泡の中で生きていたのではないかという考えに目覚めました。周りにいた大勢の人々がいらだったり、不安を感じたりしていたことに気が付いていませんでした。「私の世界」つまり、皮肉が好きでリベラルな精神をもった人々でいっぱいの、文化的で刺激的な世界は、実際にはこれまで想像していたものよりずっと小さかったことが分かりました。2016年は驚きの、私にとっては気がめいる年でした。欧州や米国での政治状況、世界中で起きた気分が悪くなるようなテロ行為の数々によって、子どもの頃から当たり前とみなしていたリベラルで人道主義的な価値が、実は幻想だったかもしれない、と思わざるを得なくなりました。
 私は楽観主義を信じる世代の一員で、それには理由があります。私たちは、上の世代の人たちが、全体主義的な政権と大量虐殺と歴史上例のない殺りくの地だった欧州を、人がうらやむような、ほとんど国境を越えたといえる友情でつないだ、自由で民主的な地域へと変身させるのに成功したところを見てきました。世界のあちこちでかつての植民地帝国が、その体制を支えていた非難されるべき思い上がりとともに崩壊するのを目撃しました。フェミニズムや同性愛者の権利、人種差別に反対するいくつもの戦線で著しい進歩があったことも知っています。私たちは、資本主義と共産主義の間で繰り広げられたイデオロギーや武力の大きな対立を背景にして育ち、そしてハッピーエンドと多くの人が考える結果になったところを目撃しました。

 しかし、今振り返ってみると、ベルリンの壁崩壊以降は、自己満足の時代、機会喪失の時代だったように思えます。富や機会を巡る大きな不平等が、国と国の間で、またひとつの国のなかで拡大するのを見ています。中でも2003年のイラク侵攻、2008年に起きたスキャンダラスな経済危機に続いて普通の人々に対して何年も施行された緊縮政策は、さまざまな極右イデオロギーと民族ナショナリズムが拡散する現在をもたらしました。人種差別--伝統的な形の、そしてより売り込みにたけた現代的な形態の--が再び深刻さを増し、地中に埋められていた怪物が目覚めたかのように、私たちの文明化された街の地盤を揺り動かしています。今はまだ、私たちを結びつけるような進歩主義的な運動が見つかっていません。それに代わって、裕福な西側の民主主義国家でさえ、対立する集団に分裂し、富や権力を巡って激しい競争を繰り広げています。

 もうそこに、いやもう既に峠を越えたかもしれませんが、科学、技術、医学の分野で驚くべき突破口が開かれたことで、いくつもの挑戦に直面しています。CRISPR(クリスパー)といったゲノム編集などの新世代技術、人工知能やロボット技術の進歩は、命を救う素晴らしい利益をもたらしてくれる一方で、アパルトヘイト(南アフリカなどの人種隔離政策)にも似た容赦ない能力主義社会や、エリート専門家とされる人たちも含めた大量の失業者を生み出すかもしれません。

 そうして、60代のひとりの男である私は目をこすって、霧の向こうにあるいくつかのことがらをより分け、昨日まで存在していることすら考えていなかった、この世界に持って来ようと試みています。知的な意味で疲れた世代の出身である、疲れた作家の私に、今この見知らぬ世界を診断するエネルギーを見つけることができるでしょうか? 社会がこの大きな変化に適応しようとするにあたって、私に、物の見方を提供するのを助けたり、さまざまな議論や闘いや戦争といったものに感情の層を重ねることに手を貸したりする、いくばくかのエネルギーは残っているでしょうか。

 このまま頑張り続け、できるだけのことをしなければなりません。というのも、私は今も文学は重要で、この困難な領域を越える時にはより重要だからです。でも私は、私たちを刺激し導いてくれる若い世代の作家たちに期待しています。今は彼らの時代です。彼らこそ私に欠けている知識や直感を持つことになるでしょう。本や映画、テレビ、演劇などの世界には今日、冒険好きでわくわくさせてくれる、40代、30代、20代の才能ある女性と男性がいます。だから私は楽観的です。そうでない理由はありません。

 でも、最後に私の訴えを聞いてください。もしよければ、これが私のノーベル賞アピールです! 世界中で解決策を議論することは難しいでしょうが、少なくとも片隅にある私たちの世界、私たちが読み、書き、出版し、推薦し、批判し、本に対して賞を与えるといった「文学」という片隅の世界で、どう準備すればよいか考えてみましょう。不透明な将来で重要な役割を果たそうとするなら、今日のそして明日の作家たちから最良のものを引き出そうとするなら、私たちはもっと多様になるべきです。とくにこれからお話しするふたつの点においてです。

 第一に、私たちはエリート優先の文化世界という居心地のいい領域を超えて、もっとたくさんの新しい声を取り込み、私たちが共有するこの文学世界を広げなくてはなりません。私たちは情熱を込めて、遠方の国に住んでいる作家であるか、自分たちの共同体にいる作家であるかを問わず、今もって知られていない文学の文化の中から貴石を見つけなくてはなりません。第二に、優れた文学を定義するにあたって、あまりにも狭く保守的な縛りをかけないよう細心の注意を払わなければなりません。次世代の作家たちは、重要で素晴らしい物語を語るために新しく、時には私たちを惑わすような手法を携えてやって来るでしょう。私たちは、特にジャンルや形態について、彼らに心を開かなくてはなりません。そうすれば、彼らの最も優れた部分を育て愛(め)でることができるでしょう。分断が危険なほど深まっている時だからこそ、私たちは耳を澄ませて聞かなくてはなりません。良いものを書き、良いものを読めば、障壁を打ち破ることができます。そこで新しい考えや、私たちをつなぐ人間的で偉大な視点も見つかるかもしれません。

 スウェーデン・アカデミーの皆さま、ノーベル財団の皆さま、そしてこれまで何年にもわたって、ノーベル賞を人類が目指すべき善なるものの輝かしい象徴にしてくださったスウェーデンの皆さまに、感謝申し上げます


2017年12月16日 (土) | 編集 |
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※ノーベル文学賞にカズオ・イシグロさん|NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize2017/jyusho_bungaku/kazuo-ishiguro.html
ノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロさんが授賞式を前にNHKに語ったのは、フェイクニュースが多い時代だからこそ文学やジャーナリズムを通じて真実を追求し続けることの重要性でした。インタビューの英語と日本語訳の全文を掲載しました。
(インタビュアー: ロンドン支局長 税所玲子)
英語⇒http://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize2017/jyusho_bungaku/kazuo-ishiguro.html

ノーベル賞 “よいことのため奮闘”
ーーー 授賞式を2日後に控えていますが、受賞に対する気持ちを改めてお聞かせ頂けますか? そして可能であれば、ストックホルムでの体験についても。

イシグロ氏: この賞を頂けたことはこの上なく光栄なことです。世界にはたくさんの賞があり、すばらしい賞もありますが、朝食のシリアルの販売を促進するための賞もあります。だから人は賞をもらった時には、その賞が人々の心にどんな印象を残すかについて考えます。ノーベル賞は世界でおそらく最もすばらしい賞と見なされているのだと思います。世界中の人々がそう考えていることでしょう。

現実がどうであろうとも、重要なのは人々にとってノーベル賞が何を象徴しているかです。ノーベル賞が象徴しているのは、非常に重要な何かだと思います。特に、世界が分断され、不確かで、世界に緊張がたくさんある現在においてはそうです。ノーベル賞は実に国際的な賞で、人間が文明や知識を進化させるために、協力して何をするのかをはっきりと物語っています。

ノーベル賞が象徴しているのは、人々が派閥に分裂し、資源をめぐって互いに激しく戦い、口論することではありません。何かよいことをするために一緒に奮闘する、という考えだと思います。こうした理由から、特に現在において、私が科学者、経済学者、医師らとともに世界でこれを象徴できることは、私にとってはとても意義深いことです。現在の世界の状況は非常に張り詰めていますから。

文学は問う “発見をどう利用するか”
ーーー ノーベル賞が授与されるさまざまな分野の中でも、特に文学が果たし、人類が支持できるような貢献にはどのようなものがあると思いますか?

イシグロ氏: 文学の重要な点は、それが人間の経験、感情を際立たせ、私たちが発見した知識によって何をするかを私たちが決める必要があることを際立たせていることにあります。そしてもちろろん、それがノーベルの物語の核心です。

なぜなら、ほとんどすべての人が知っているように、ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルによって創始されたからです。彼はダイナマイトを発明し、すぐに疑問が生まれました。ダイナマイトをどう使うべきか? 何のために使うべきか? ダイナマイトはひどい破壊のために使うこともできるし、すばらしい進歩のために使うこともできます。

だからノーベル賞の考えの中には、すぐにある共通の理解が生まれたのです。「知識を進化させ、科学的発見などをすることは、もちろんとても重要だ。しかし、そこにはもう1つ、とても重要な側面がある。つまり、私たちはそれらの発見をどう利用するかを決めなければならない」という理解です。そうしたことは、感情や人間の体験に関して、異なる文化や人種間に一定の理解があって初めてできると私は思います。

つまり、変化を経験するというのはどんな感じか? 技術のすばらしい進化を享受する側にいるというのはどんな感じか? 産業革命に移行し、情報世代に移行するというのはどんな感じか? ということです。私にとって文学の本質とは、人間の感情であり、願わくば私たちが作り出した障壁や壁を超えて、人間の感情を分かち合うことなのです。

文学は自分たちを理解する助けに
ーーー つまり文学の本質とは、互いを受け入れて、必要であれば妥協をしたり共通点を見出したりするために、他者の視点を理解するということですか。

イシグロ氏: そのとおりです。私たちと全く異なる価値観を持っているように見える人々を理解することだけにとどまりません。文学は、私たち自身を理解する助けにもなるでしょう。なぜなら、私たちの国や私たちの小さな派閥の中で、私たちはいとも簡単に「自分たちは正しいやり方をしている」と強く信じ込み、自分たちや自分たちの思い込みが何に基いているのかを立ち止まって観察しないからです。

こうした理由から、私は、文学は非常に重要だと考えています。文学はとても真剣で、厳粛で、高尚である必要はありません。私たちが語ることは、しばしばユーモアや娯楽の中で起こることです。私は、これらのさまざまな物語の語り方には、それぞれ価値があると考えています。映画もあります。日本には漫画もあります。多様な芸術形式があります。テレビもあります。演劇もあります。

それらは、この世界に生きていく中で感じる私たちの気持ちを、交換する手段です。私たちが自分たち自身を見つめ、自分たちを観察することに役立ち、障壁を超えて人々を理解することを助けるでしょう。文学は人間の活動にとって、非常に重要な部分です。

認められたディランの芸術様式
ーーー あなたは去年、ボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれたことを支持していますね。

イシグロ氏: もちろんです! はい。ボブ・ディランは私にとって、さまざまな点でずっとヒーローでした。私は13歳の時に初めて、非常に制御された方法で言葉を使うことに興味を持ちました。初めてボブ・ディランさんのアルバムを聞いた時です。それは「ジョン・ウェズリー・ハーディング」というアルバムで、特に有名というわけではありません。

しかし私は、去年彼がノーベル賞を受賞した時、震えました。彼は、単にその言葉によって賞を与えられたのではなく、「文学とは何か」という解釈が広がった結果、受賞したのであってほしいと考えています。なぜなら、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ジョニ・ミッチェルら、多くの人たちが創りあげてきた、非常に重要な作品がいくつもあるからです。

この数十年の間に発展してきた芸術様式の中には、私が非常に重要だと考える様式があります。その芸術様式とは、フィクション、詩、ドラマと肩を並べる価値があり、パフォーマンス的な側面が強いものの、間違いなく、ある種の文学の形式でもあります。ボブ・ディランをノーベル賞受賞者として認めることは、彼が体現する芸術様式全体の重要性を認めることでもあります。作曲や演奏のパフォーマンスは、私の世代や私より若い世代にとって非常に重要なものになっています。スウェーデン・アカデミーがボブ・ディランの芸術様式を認めたことは、すばらしいことです。

平和賞にICAN 世界への警鐘
ーーー 私たち日本人は、あなたの作品に関する話に移る前に、この質問は避けて通れません。核兵器の廃絶運動を主導してきたICANにノーベル平和賞が授与されたことについて、考えをお聞かせ頂けますか?

イシグロ氏: 非常に感動しました。ICANを評価することは、とても重要で正しい決定だったと考えています。ご存知でしょうが、私は長崎で生まれました。そして私の母は原爆が落ちた時にそこにいました。だからある意味では、私は長崎の記憶の影の下で育ったのです。

私は西側に来てからは冷戦時代の中で育ちました。時に、状況は非常に緊迫しました。私や私の多くの友人は「核戦争が起きるだろう、僕たちはどうすればいいだろう?」と真剣に考えました。1989年の冷戦終結後、すべての人が「核兵器は米ソの緊張とともに消え去った」と思い込んだのは、私には常に奇妙に映り、やや気がかりなことでもありました。

もちろん、その兵器はこれまでと変わらず危険です。実際、それらはもっと緩い管理の下で動き回っています。私たちは、大きな恐怖やショッキングなテロの時代に生きています。状況はとても危険になっていると思います。もちろん、日本の人々は最近、北朝鮮で起きていることのために、そのことを痛感していることでしょう。私たちが核兵器について再び憂慮することは今まで以上に重要だと思います。平和賞をICANに授与することはすばらしい決定です。全世界に向けた警鐘になるでしょう。

過去を忘れるか 過去と向き合うか
ーーー あなたの小説の話に戻りましょう。とても基本的な質問ですが、あなたが小説を書く理由について詳しくお聞かせいただけますか? なぜ、大きな変化や自分の手に余る運命に直面する登場人物を選ぶのですか? なぜ、人と国の両方のレベルでの記憶と忘却というテーマを選ぶのですか? こうしたことを書くモチベーションは何ですか?

イシグロ氏: 私はキャリアの初期には、自分の人生を振り返って「自分が最も誇りを持っていたものや自分の偉業は、実際は自分が恥ずべきことだった」ということに気付くような人々について書きたいと思っていました。彼らが気付かなかったのは、自分の貢献や仕事が、より広いコミュニティの中でどう使われているかという視点を持っていなかったからです。それが私のテーマだったと思います。

なぜなら、私は第2次世界大戦直後の世代であり、日系人でもあるからです。そして、ヒトラーの下で戦ったりヨーロッパの占領された多くの国でヒトラーに協力したりした、ヨーロッパの多くの人々の体験も、理由の1つです。私より一世代前の人々は、常に罪悪感とともに生き、「私は何か悪いことをしたのだろうか? 私はその当時は気付かなかった」と常に考えをめぐらせていると思います。

だから私にとって、それはとても自然なテーマでした。私は年を取るにつれて自分の過去を思い出し、「その過去を忘れることが最善なのか? それとも自分はその過去と向き合うべきなのか」と思い悩む人々に関する問題を提起したいと考えるようになりました。私は、その問題を国に当てはめました。国は、暗い過去を忘れるためには何が最善かをどのように決めるのか? 国は、前進するために、結束を守るために、コミュニティが分裂して内戦に陥ったり派閥に分かれたりするのを防ぐために、過去を忘れなければならない時があります。私たちは、国が絶えず内戦や暴力の連鎖に陥っている状況を世界中で目にしています。それは、彼らが過去に起きたことを忘れられないからです。だから、時には忘れることも必要です。

しかしその一方で、それまでに起きた大きな恐怖や不正義に対処せず、安定した民主主義社会を築けるでしょうか? 国は、困難な時期を経験した個人個人と同じ問題を抱えているように私には見えます。つまり、忘れる方がよいのはどんな時なのか? ということです。そして、覚えておくべきなのはどんな時なのか? 私は当初から現在までこれらのテーマに没頭しています。

よい社会を築くには忘れることも
ーーー 日本は忘れること、覚えていることのバランスに長けていると思いますか? すべての人が合意できるような公式や単純な答えがないことはわかりますが、日本の社会には「埋められた巨人」はいるのでしょうか?

イシグロ氏: はい、あらゆる社会には埋められた巨人がいると思います。私がよく知るすべての社会には、大きな埋められた巨人がいると思います。今アメリカでは、「人種」という埋められた巨人がいると思います。それが国を分断させています。なぜなら、それは埋められたままだからです。私が住むイギリスにも埋められた巨人がいます。

多くの人々は、日本が第2次世界大戦の記憶を埋めていると非難しています。2回の原爆投下のために、その犠牲者を特定する方が、日本にとっては楽かもしれません。それが日本と東南アジアの隣国や中国の間で緊張を引き起こしています。

しかしその一方で、だからこそそれがとても微妙な問題なのだと思います。なぜなら日本は「国はいかにして軍国主義のファシスト的社会から近代的な自由民主主義のモデルに移行できるか」という優れた手本だからです。

現在の世界はとても不確かな場所だと思います。ヨーロッパは今はとても不確かな時期です。日本は依然としてとても安定しています。日本はとても不確かな時代のとても強固な民主主義国家です。これは日本にとって、多くの暗い記憶や日本が犯した残虐行為を、第2次世界大戦直後に押しのけなかったとしても可能だったでしょうか? 不可能だったかもしれません。日本のようなよい社会をいかにして築けるかは、無理にでも物事を忘れることにかかっているのかもしれません。正義が常に対処されてはいないように見えるとしても、です。

この問題は世界中の多くの国に当てはまることです。確かに日本は多くのことを忘れましたが、日本は自由世界におけるすばらしい自由民主主義国家になることに成功しました。それは無視できない成果だと思います。 

前進するために立ち返るべき疑問
ーーー 私たちが第2次世界大戦の記憶を埋めて、気持ちを切り替えて進んできたとして、私たちは今、その記憶に対処する勇気を持つべきでしょうか? それとも、私たちはその記憶を放置して前進し続けるべきでしょうか? なぜなら、今の世代は戦争を忘れて、もっと自分たち自身のことを気にしているからです。ある意味では、私たちはより内向き思考になっています。これからどう進むべきでしょうか?

イシグロ氏: 外部の私が口をはさむようなことではありませんが、友人、あるいは子どもの頃の記憶について苦悩している個人に対して与えるのと同じような助言があります。あなたたちは、次のような疑問に立ち返ってはどうでしょう。何らかの損害が自分の社会にもたらされたか? 物事を埋めたことによって、自分の隣人との関係が損なわれているか?

一部の問題に目が向けられていないために損害が生じたり、これから悪化するかもしれない何か深刻な状況が生じているのなら、次のことを問うべきかもしれません。私たちは今、過去に目を向けられるほど強くなっているか? 過去はより遠ざかっているために、今の方が過去に目を向けるのは簡単か?

ほかの多くの国々は、そうしたことをしてきたと思います。多くの国々が、何世代も前に起きたことについて公式の謝罪を表明してきました。しかし、私は日本に関して何か提言する立場にはありません。私は一般論を述べています。なぜなら、過去をどう扱うかは、今起きることや将来起きることにも大きく関係しているからです。

1つの物語は別の物語からの発展
ーーー 執筆の話に戻りますが、あなたは、ジャンルや、誰かが物語の語り方に取り入れた区分に縛られるべきではないと強調しています。なぜ、あなたは次の段階に進むのですか? 記憶に関する1つのテーマにこだわりつつも、同時に別の表現形式を試すことによって、新たな自分を創造しようとしているのでしょうか? 村上春樹さんは、あなたは小さなかけらで絵を書いているように見えて、それらがやがて一体となって全体像が見えるようになると述べていました。それには同意しますか?

イシグロ氏: はい。多くの作家、そして春樹さんの作品もそれによく似ていると思います。彼が行うすべてのことは、より大きな作品の一部だと思います。それが、村上春樹を私たちの世代の偉大な作家のひとりにしている要素の1つだと思います。私も春樹さんの言っていることは理解できます。なぜなら、彼は同じ作家として、多くの執筆活動をとおして一貫した継続性を理解しているからです。読者はしばしば、外側や表面にあるものに気付きます。だから人々は「ああ、かなり変わったな」と言うのかもしれません。しかしもちろん、物語や物語の中の感情は一貫していることが多いのです。

そして、1つの物語は別の物語からの発展なのです。私は意識的にさまざまなジャンルを試そうとしているわけではありません。常にかなり抽象的なアイデアからスタートします。時代やジャンル、あるいは地理においてすらも、自然な設定はありません。だから私はいったんアイデアを得たら、しばしば、いわばロケハンをすることになります。このアイデアを具現化するのに最適な場所はどこか? 今世紀にそれを具現化すべきか? この国にすべきか? 未来の空想の世界でそれを具現化すべきか? だから私はジャンルについては、全く考えません。私は、その物語を機能させるために自分のベストを尽くそうとしているだけです。

私はむしろ、航空機を発明しようとした昔の人々に似ています。私は、航空機を空に飛ばすために、自分が得られるものは何でも取り入れています。私は自分の隣人の自転車を盗むかもしれません。しかし、それがどんな外見だろうが私は気にしません。私はただそれを飛ばしたいのです。そして私は大抵、本を書いている時には絶望的な気分になります。なぜならそれが「飛ばない」と思うからです。そして私は何でも盗みます。それが飛び始めると、ほかの人々はそれを見て「それは何ですか? 飛ぶ自転車ですか? 飛行機ですか? 空飛ぶ円盤ですか?」と言うかもしれません。後になって初めて、人々はその形を見て、「ああ」と言うのです。しかし私にとってはそれは、小説を組み立て、アイデアのための適切な場所を見つけようとすることに伴う混乱の結果にすぎません。 

始まりは大抵2つか3つの文
ーーー 最初の発想はどこから来るのですか? ソーシャルワーカーとしての過去の経験からですか、それとも自分が日系イギリス人であることからですか? その発想の源はどこにあるのでしょうか?

イシグロ氏: 私が体験したすべてのことは、本の執筆のしかたにおいて役立っていると思います。しかし私にとっては常に、アイデアの始まりは大抵2つか3つの文で、かなり簡単に表現できることです。私はノートを持っています。1979年からノートを持っています。同じものではありません。しかし、それは気がめいるようなものです。私はこれまで2冊しか持ったことがなく、それらはかなり小さいものです。このことが示しているのは、私が持っているアイデアがいかに少ないかということです。時々、物語にするすばらしいアイデアを思いついても、それは誰かほかの人が書くべきで、私にはふさわしくないと思うこともあります。しかし、アイデアを思いついて、「ああ、これは私の領域だ」と思う時もあります。春樹さんなら「それは私のキャンバスの一部だ」と言うでしょう。そこで私は、書き留め、そして考えます。私は常に、とても簡単に表現できるアイデアからスタートします。しかしそれは、私が2つか3つの単純な文の中でそれを見た時に、緊張、感情、そしてポテンシャルにあふれたアイデアでなければなりません。大きな物語を、いわば宿しているものでなければなりません。そうであれば、1冊の小説が書けるかもしれません。しかし、私がそうしたアイデアを見つけるのはとてもまれです。だから私が生涯の中で書いてきた本の数は、多くはないのです。 

書くための時間をいかに得るか
ーーー ある人から、あなたは1冊の本に10年ぐらい費やすと聞きました。自分の孤独にどう打ち勝つのですか? あなたのお父様は科学者で、細部に対してかなり細かい人だったはずです。あなたもその遺伝子を受け継いでいますか?

イシグロ氏: 父の仕事のしかたは、私にとってはすばらしい手本だったと思います。なぜなら、父にとって仕事は「オフィスで、給料のためにして、帰宅してからはくつろぐ」というようなものではなかったからです。彼は決して止まりませんでした。彼はテレビを見る時も、即席の机で仕事をしていました。彼は自分のいすの肘掛けにボードやグラフ用紙を置いていたのです。テレビでスリラーものを見ている最中にアイデアを思いついた時に備えて、彼のすべての道具はそこに置いていたのです。彼は情熱を持って仕事をしていて、私にとってはすばらしい手本でした。私は科学についてはほとんどわからないし、科学的思考を持っているわけでもありませんが、仕事に対するそのような姿勢は、自分の生活から必ずしも切り離す必要があるものではありません。天職のようなものなのです。だから父の仕事ぶりは私にとってはすばらしい手本だったと思います。

私が自分の人生の10年を1冊の本の執筆に費やしたというのはナンセンスです。人が10年も費やすほど何かに没頭したとすればそれはとても立派なことですが、私は1冊の本の執筆に10年費やしたことはありません。なぜなら、私はほかのこともしながらだからです。1冊の本から次の本までの最長期間は私の場合はおそらく5年です。

問題なのは孤独ではありません。最近の作家は社会的であることも求められます。だから、私が本を書く間隔がそこまで長い理由の1つは、私はしばしば、本を出版してから2年ぐらいかけて世界中を回ってその本について語ったり、会議に参加したり、映画化に関与したりしているからです。こうした話し合いのうち一部は実際に形になりますが、多くは実現しません。私は多くの時間をビジネスマンのように費やしています。キャスティングや映画の資金集めや舞台化に関する会議に出ています。多くの点で、問題はその逆です。

つまり、私は本を書くための時間を得るべく努力しなければならないのです。これは、現代の作家にとってますます問題になっていると思います。それを「問題」と呼ぶとすれば、ですが。以前の世代の作家は、そのような程度まで時間の問題に直面することはなかったと思います。

しかし、作家、特に小説家は1人で作業をするので、彼らを支える人は誰もいません。彼や彼女は1人で放置されることが重要なのです。誰かがいつも電話をしてきて、「これをしてください」「あれをしてください」と言います。私の妻は、人々を押し返すことに長けていて、私には「あなたはあれはやるべきじゃない。2階に行って執筆を続けて」と言います。 

2つの異なる社会規範を理解
ーーー あなたはご両親の養育方法について触れられました。70年代や80年代のイギリスの環境の中で典型的な日本人の両親に育てられたことは、あなたの執筆活動やものの見方にどう影響しましたか?

イシグロ氏: 両親による私の育て方は、私がそもそも作家になることにとって極めて重要だったと思います。私の執筆スタイルだけでなく、私がそもそも作家になったことにとって重要でした。なぜなら、私の両親の計画は、1年か2年後に日本に戻ることだったからです。私は5歳の時に長崎からイングランドに移りました。毎年、私たちは戻ることを計画していました。だから私たちは移民にはなりませんでした。私たちは訪問者でした。だから私の両親は常に、西側の人々、イギリス人たちを、異郷の地の先住民のような存在とみなしていました。

私は、それらの先住民の慣習を尊重するよう常に教えられました。しかし、私はその慣習を取り入れるようには求められませんでした。大人に対するふるまい方などのとてもささいなことについてもです。特にその当時は、日本人の男の子はほとんど何をしても許されました。イングランドの基準からすれば、それは非行と呼ばれるようなことです。日本人の男の子は、とても率直で強情な子もいました。しかしイングランドでは、それは当時は逆でした。子どもたちはとても静かでなければなりませんでした。だからすぐに、私の小さな世界の中で、とても大きな違いが生じました。つまり、自分の家の中で自分が求められるふるまいや日本語を話すことと、外で必要なふるまいの違いです。私は常に、2つの完全に異なる社会規範があることを理解していました。私はそのように育ったのです。常に、イギリス人を少し距離を置いて見ていました。この社会の中で物事を絶対的に正しいこととか間違っていることとして見るのではなく、この国の慣習や伝統とみなしていました。

そして家では自分の日本人としての生い立ちのために、私は常に日本のもの、特に日本映画に魅了されていました。私は今でも、1950年代に作られた日本映画と特別な関係を持っています。なぜなら、それらは昔の子どもの頃の記憶を呼び覚ますからです。私の両親は1960年に日本を去ったので、ある意味では、私が受け継いだ両親にとっての日本は、あなたが知らない日本かもしれません。物事は大きく変わりました。小津や成瀬などの監督の映画を見ると、私はそれは両親をとおして自分がイングランドの家で経験した生活にとても近いと感じます。それは私の両親の生活だったと私はいつも思います。だから私は常に、1950年代や60年代初頭の日本映画とは深い関係を持ってきたのです。

日本 文化的勢力として認識される
ーーー 日本について、特に気に入っているフレーズやアイテムはありますか?

イシグロ氏: 先ほど申し上げたとおり、私にとって日本映画はずっと重要なお手本だったのですが、漫画という形式の物語も昔から大好きでした。長崎に住んでいた頃は子どもでしたし、なんでも漫画という形で読んでいたからでしょうね。やがてイギリスに移り住むと、同じものはイギリスに存在しないわけですから、漫画は自分にとって日本文化そのものになりました。漫画本が送られてくると、これは日本特有のものだな、と理解したわけです。そして実際に、漫画は日本特有のものであり続けていると思います。

今では漫画の影響力も大きくなり、アメコミ業界ではだれもが漫画の技術から学ぶようになったのではないかと思います。従来のスーパーヒーローもののアメコミよりも、漫画の物語技術はかなり洗練されています。そんなわけで、今でも私は漫画という物語形式が大好きですし、実はそれは私がやりたいと思っていることの1つでもあるのです。自分の子ども時代の情熱が思い出されるので、生き生きとした描写があるような小説の執筆に取り組んでみたいのです。

とは言え、今では西欧の人たちもすっかり日本文化のとりこになり、まるで私がイギリスに来た当時にフランス文化が人気だったのと同じようです。今となっては、何が日本のもので何がそうでないか、思い出すのも難しいほどです。娘の世代はピカチューなどのポケモンやテレビゲームで育ちましたし、ロンドンの人たちはランチにすしを食べるのが大好きです。あなたが食べ慣れているような高級なすしではないと思いますが、サンドイッチをつまむよりもすしを買うほうを選ぶのです。新聞には数独が掲載されていますし、日本から来たものって何だろう? と改めて考えなければならないほどです。

自分が初めてイギリスにやって来た子どもの頃は、日本というとエキゾチックなイメージしかなかったので、当時とはずいぶん変わりましたね。そして続いたのが、日本が奇跡の経済大国とみなされていた時代でした。日本発の目新しい道具や発明品がたくさんありました。でも、西欧では今、日本は文化的な勢力として認識されていると思いますし、そう認識されることを私はとても誇りに思います。

西欧社会で生きてきた中で私は、「第二次世界大戦の敵国から来た人」から「テレビやカメラ、車を作る国から来た人」、そしてとうとう「村上春樹や芸術的・禁欲的な美しさ、アニメなどのポップカルチャーや任天堂ゲームなどの国から来た人」へと変遷したわけです。この進展を私は大変誇りに思っています。洋服のデザインなども優れていますし、日本文化はあらゆる方面へ広がっていて、これは日本が誇りに思うべきことだと思います。

特定グループへの責任転嫁は危険
ーーー 私たちは表面的にはより国際的になっているように見えますが、地域レベル、国家レベルでは、ここ数年、真逆の現象が見られているということは皮肉だと思いませんか。イギリスのEU離脱とヨーロッパについてのイシグロさんのご意見は理解しておりますが、なぜこのような状況になっているか、もう少し詳しくご説明いただけますでしょうか。

イシグロ氏: ある程度は反動なのだと思います。大衆主義という言葉がおおむね当てはまるでしょう。これは特に西欧世界においてよく見られた現象ですが、興味深いことに日本や、それから東アジアにおいてはあまり見られません。東アジアはこの現象から免れているようですが、ヨーロッパやアメリカでは急速に広がりました。グローバリゼーションに対する反応、グローバリゼーションの広まる速さに対する反応であるということは、ある程度あると思います。

穏やかで洗練された環境に住む幸運に恵まれた私たちが、そういう人たちを指さして、あの人たちは変化や進歩を恐れる、内向きで遅れた人たちだと言うことは簡単です。でも私は、実にたくさんの人々の気持ちや関心をなおざりにしてきたということを見事に表した現象だと思うのです。冷戦が終結し、共産主義が崩壊したあと、まるで抑制がきかない野獣を野放しにするように、資本主義を好き放題に広めてもよいという考えが出てきたことも、原因の一部だと思っています。経済に関する新自由主義的な考えや、自由市場がすべてを支配するという考えは、豊かな国に住む成功者と取り残された人々との間に、とてつもない溝をつくり出したと思います。

この、産業や仕事のグローバリゼーション、つまり国際化から、なぜ自分たちは取り残されたのだろうと考える人はたくさんいると思います。こういう状態になったことにより、人々がお決まりの政治家たちに見殺しにされているから、「私についてきて、一緒に異議を申し立て、事態を元どおりにしよう」と叫ぶ、主流の政治的既成勢力に所属しない政治家などの影響を受けやすくなってしまったのではないでしょうか。

でも、それよりも危険なのは、外部の人間が特定のグループの人々に責任を転嫁することであって、そういったことはよく問題になります。数多くの人たちが社会で取り残されていると、声を上げる人たちがいるのは正しいことです。でも問題となるのは、有権者をコントロールし、彼らの政治的支援を取りつけるためにいちばん手っ取り早いのが、社会におけるマイノリティ、あるいは社会に入ろうとしている人々を、責任転嫁するグループとして選ぶことだということです。これは1930年代にファシスト党が用いたテクニックで、私たちは大変注意しなくてはなりません。社会は分断されつつあり、スペインのように長きにわたって安定していた国が、派閥ごとに割れていっているのを見ると、気がめいります。

失われる“何が真実なのか”への関心
ーーー 政治家が意図的に「私たち」や「あいつら」という言葉を使ったり、代替的事実や偽情報を使用したりすることについてどうお考えですか。そして長期的に見て、こういったことによって、人々が思い出すであろう過去に変化が出るとお思いですか。さまざまなテクノロジーやフェイスブックの投稿などは、ありのままの姿ではなく、人に見られたい姿を映し出しますし、今は重大な岐路であって、劇的に物事が変わりつつある時代です。

イシグロ氏: だからこそ大事だと思うのです。先ほどお聞きになりましたよね、「なぜ文学は大切なのですか」と。文学が大切なのは、基準や真実、感情的真実というものを維持しようとするからです。でも私は、あなたがされているジャーナリズムという仕事、質の高いジャーナリズムというものは、現時点では決定的に不可欠だと思っています。

フェイクニュースというものは常にありました。20世紀は政治的プロパガンダの時代でした。政治にコントロールされたプロパガンダの時代でしたが、現代のフェイクニュースはそれとはかなり違っているようで、私たちの側もうまく抵抗できるわけではありません。私たちは社会として、政府によるプロパガンダや、ヒトラーやスターリンが展開したような政治的プロパガンダには非常に敏感になりましたし、抵抗する力もついています。しかし、新たに登場したフェイクニュースに対しての抵抗力は低いのが現状です。1つ気をつけなくてはならないのは、何が真実で何が誤っているのかということに、私たちは関心をなくしているということです。

一面の真実を伝える力強い人物を否定するのをおそれているということだけではありません。事実かどうかはどうでもよくて、大事なのはその発言を聞いて引き起こされる感情だという考え方がまん延しているように思います。例えば、きのう起こったとされる事件が、自分の怒り、あるいは何かに対する自分の感情を表現していると感じたら、実際にその事件があったことにしようということです。これは大変危険なことであり、また実に新しいことでもあります。作り事としての価値が、何かの議論にとって役立ちさえすれば、何かが実際に起こったのか、それとも起こっていないのかということは、人々はどうでもよいと思っているのです。

あなたがされているジャーナリズムという仕事はとても重要だと思います。また、20世紀半ばの第二次世界大戦の中ごろ、ファシズムや共産主義が台頭し、まさに政府によるプロパガンダの時代だった当時のように、人々が真実とニュースの操作について社会全体として自覚を持ち、警戒することが重要ですし、最近のフェイクニュースのからくりを理解するために、私たちも精通する必要があると思います。

科学技術の進歩への備えが不十分
ーーー 新しく執筆中の本では、新興技術の問題と、そのような技術が日々の生活に与える影響について取り組んでおられると理解しています。今投げかけられたような難しい質問に対する答えとなるようなものでしょうか、それとも全く違うものでしょうか。

イシグロ氏: まだ本を書き終えていないので、自分でも内容についてははっきりとはわかりません。いろいろな意味で、私はまだいつものテーマで頭がいっぱいです。科学や技術の飛躍的進歩について、自分より詳しい人たちとお会いして話をしている最中だからということもあると思います。

新たに可能になったことによって、今まさに社会は大きく変化しようとしているという感触が、今周囲にあると感じます。例えば人工知能のようなものが当たり前になった場合に何が起こるか、社会では十分な検討や討論がされているかどうか疑問に思います。

自分にとっての最も興味深い疑問は、遺伝子を編集することによって「スーパーベイビー」のような存在をつくることができるようになったらどうなるかということです。遺伝性疾患を取り除くことができるという点においては、すばらしく有用な技術です。始まる前に苦痛を取り除くという意味ですばらしい新発見です。遺伝子を編集することによってさまざまな遺伝性疾患の発症を止めることができるのです。でもこれは、もともとやけどや外傷を負った患者のために開発されたものの、今ではお金持ちがより美しくなるためにおこなわれる美容整形手術と同じです。全く同じことが起こるだろうと私は思います。

より知的でより運動能力の高い赤ちゃんを、私たちはつくることができるようになります。正式に他者よりも優れた人間というものができて、一種アパルトヘイトのような仕組みが社会にできることになりますが、そうなると、能力主義という観点についてはどうしたらよいのでしょうか。物事がこのように大きく変わっていく際にどのように社会を組織していくのかという点について、社会全体としてはまだあまり検討されていないように思います。

その一方で、もし大都市が次々にゾンビに襲われたらどうなるかということについては、ポップカルチャーに考えさせられています。ゾンビの襲撃に対しては世界中で十分準備ができているにもかかわらず、実際に私たちに迫っているものに対しては、ほとんど準備ができていないということなのです。      


2017年12月16日 (土) | 編集 |



花王 ニャンとも 小さな便り、大きな便り。

鉄拳パラパラ漫画 初となる、猫を主人公としたものがたり。
手嶌葵のオリジナルソングとの奇跡のコラボが実現した、
ニャンとも清潔トイレ のWeb限定ムービーです。

『小さな便り、大きな便り。』
それは「おしっこ」と「うんち」のこと。
猫ちゃんに多い泌尿器系の病気は、おしっこで気づけることもあります。
おしっこやうんちは、猫ちゃんからの大切なお便りなんです。

定期的なおしっこチェックを、ニャンとも清潔トイレで。
そして、変化に気づいたら、すぐ病院へ。

WEBサイトはこちら>
http://www.kao.co.jp/nyantomo?cid=jp_...


★助かってよかったぁ(;_;)(T_T)(T-T)(T^T)ダァー
何度見ても泣けるわ、鉄拳さん。


2017年12月15日 (金) | 編集 |
★悪食「カオナシ」はニガ団子を食べて…(「着ぐるみ」「セクハラ」「大手スタジオ買収劇」について)
http://yaroneko.blog55.fc2.com/blog-entry-2257.html
★ディズニー傘下に!デッドプールが自虐…クリエヴァ&ヒューも反応
http://www.cinematoday.jp/news/N0097004 @cinematodayさんから

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 米ディズニーが21世紀フォックスを買収したことで、存続が危ぶまれていた“破天荒ヒーロー”デッドプールを演じるライアン・レイノルズが、ディズニーランドで警備員につかまる姿をアップするという自虐ネタをSNSで披露した。そのほかにも『アベンジャーズ』や『X-MEN』などに出演していたキャストが、2大スタジオがそれぞれに手掛けてきたヒーローたちの合流にリアクションした。

 今回の事業買収によって、フォックスが持っていた「X-MEN」「ファンタスティック・フォー」などのマーベルコミックスの映画化権がディズニーのもとへ。それにより、フォックスのもとで映画化されてきたキャラは、ディズニー傘下のマーベルスタジオが築き上げてきたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)入りすることとなる。

 フォックスのもとでR指定映画ながら大ヒットを飛ばした『デッドプール』のデップーは、過激な暴力と下品なジョークに加え、“第四の壁”(フィクションと現実との境界)を突破して、ファンに語りかけてくることで人気。そんなデップー(ライアン)は先週、フォックス買収が合意間近だと伝えられると、「デッドプールとミッキーマウスの間にある爆発的な性的緊張を解く時だ」と何やら覚悟を決めた様子のツイート。そしてついに合意成立となると、デップーはディズニーランドで警備員に取り押さえられている写真に「どうやらマッターホーン(・ボブスレー)を爆破させることはできないようだ」と自虐ネタでファンを大いに沸かせた。

 そもそも、ファミリーフレンドリーを大事にするディズニーはR指定の作品を製作する気がないことを過去に明言しており、デップーはMCUから締め出されるのではないかとファンの間で懸念されていた。しかし、ディズニーの会長兼最高経営責任者(CEO)のボブ・アイガー氏は「X-MEN、ファンタスティック・フォー、デッドプールを含んで、マーベル・シネマティック・ユニバースを拡大させていくことを楽しみにています」と発言していることから、破門はなさそうだ。ただ、ライアンが自らネタにしたように、ディズニーが一体どこまでデップーの言動を大目に見るのか、今後の続報が待たれるところ。

 そのほかにも、MCUのキャプテン・アメリカ役クリス・エヴァンスは、過去にフォックスが手掛けた『ファンタスティック・フォー』シリーズでヒューマン・トーチを演じていたとあって、合意間近との報道に対して「キャプテン・アメリカとヒューマン・トーチがバディを組むコメディーのスピンオフは誰に持ちかければいいの? 『大災難P.T.A.』と『ファミリー・ゲーム/双子の天使』をかけ合わせたような感じを想像しているんだけど」とTwitterでジョークを飛ばしていた。

 『LOGAN/ローガン』で惜しまれながらウルヴァリン役を引退したヒュー・ジャックマンも、ウルヴァリンのアベンジャーズ入りが現実味を帯びてきたことについて「それは面白いね。17年間にもわたって考え続けてきたことだ」「すばらしいよ。とくに、アイアンマン、ハルク、ウルヴァリンが一緒にいるところを見たかったな」などとColliderのインタビューで告白。引退撤回もありえるかもと、頭をよぎるが、ヒューは「でも、残念ながら、僕には時すでに遅し。ほかの誰かがウルヴァリンとして参加するのを楽しみにしているよ」とその可能性を否定しつつ、今後のウルヴァリンに期待を寄せていた。マーベルスタジオとフォックスがそれぞれに築き上げてきたヒーロー映画の世界観がどのように混ざり合っていくのか。全盛期とも言えるスーパーヒーロー映画界が、局面を迎えるのは間違いなさそうだ。(編集部・石神恵美子)

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james l. brooks‏@canyonjim
Simpsons say “hi” to Mickey with respect (he’s a lot older than we are)


2017年12月15日 (金) | 編集 |
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9時に花火が鳴りボロ市スタート!あまり早くいってもまだどのお店も準備中だし、でも空いているうちにと、10時前に行ってきました。が、すでにこの人ごみ。

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ま、そうこう言っているうちにどんどん人が増えてきて身動きできなくなってきたので、お目当てのお店は決まっているので、天祖神社内の東北物産展で立派な白菜ひと玉、飲むヨーグルト1リットル、そして、鹿港で肉まんと手作り豆乳(無糖)&冬瓜茶を買い、さっさと帰ることにしました。帰宅の途中の近所の鶏肉屋さんで鶏肉買い、ブランチは鶏肉と冷凍しておいたつくねと熊本のシイタケ、そして買ってきた白菜でお鍋、そして肉まんをいただきます!

鹿港はボロ市期間中は肉まんのみ。豆乳と冬瓜茶は温、冷あり。豆乳は無糖、加糖、そして黒ゴマがあります。


2017年12月13日 (水) | 編集 |
亡き親友の娘の家族に昨年同様、25日到着でクリスマスプレゼントのシフォンケーキ(青梅シフォンケーキのちゃんちき堂 https://chanchikido.easy-myshop.jp)をオーダー。
娘夫婦のために紅茶、子ども達のためにプレーンのハーフハーフ。
母親と婆さまのダブル気分を味わえる貴重な季節♪

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野郎どもにも大好評、ちゃんちき堂のシフォンケーキ!


2017年12月12日 (火) | 編集 |
★「被爆ピアノ」の音色、オスロに響く 平和賞記念演奏会:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASKDC739QKDCPITB02K.html
★ノーベル平和賞コンサート “被爆ピアノ” 演奏 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171212/k10011255461000.html
★広島の“被爆ピアノ”音色響く、ノルウェーで平和コンサート(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20171212-00000025-jnn-int @YahooNewsTopics

今朝のニュースで拝聴。被爆ピアノが奏でるビーチボーイズは心に染み入る音色でした。
フルバージョンのものを探してたらやっとこさ見つけました。
サーロー節子さんも招待されたジョン・レジェンドと「被爆ピアノ」のデュエット、ビーチボーイズの「God only knows(神のみぞ知る)」@ノーベル平和賞コンサート2017。






2017年12月12日 (火) | 編集 |
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この日、彼女は亡き母の留め袖をリメークしたという黒のドレスで現れた。

核兵器廃絶キャンペーン(ICAN)活動家セツコ・サーロウさんの記念講演スピーチ。
(ノルウェーオスロ市役所)
pic.Terje Bendiksby / NTB scanpix via AP)by MailOnline


(以下スピーチ日本語訳全文)

皆さま、この賞をベアトリスとともに、ICAN運動にかかわる類いまれなる全ての人たちを代表して受け取ることは、大変な光栄です。皆さん一人一人が、核兵器の時代を終わらせることは可能であるし、私たちはそれを成し遂げるのだという大いなる希望を与えてくれます。

 私は、広島と長崎の原爆投下から生き延びた被爆者の一人としてお話をします。私たち被爆者は、70年以上にわたり、核兵器の完全廃絶のために努力をしてきました。私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、エッケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。

 私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。

 今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。皆さんに、私たちの上に、そして私たちのまわりに、25万人の魂の大きな固まりを感じ取っていただきたいと思います。その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛されていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。
 米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。8時15分、私は目をくらます青白い閃光(せんこう)を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかりました。私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。

 そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃虚がありました。

 幽霊のような姿の人たちが、足を引きずりながら行列をなして歩いていきました。恐ろしいまでに傷ついた人々は、血を流し、やけどを負い、黒こげになり、膨れあがっていました。体の一部を失った人たち。肉や皮が体から垂れ下がっている人たち。飛び出た眼球を手に持っている人たち。おなかが裂けて開き、腸が飛び出て垂れ下がっている人たち。人体の焼ける悪臭が、そこら中に蔓延(まんえん)していました。
このように、一発の爆弾で私が愛した街は完全に破壊されました。住民のほとんどは一般市民でしたが、彼らは燃えて灰と化し、蒸発し、黒こげの炭となりました。その中には、私の家族や、351人の同級生もいました。その後、数週間、数カ月、数年にわたり、何千人もの人たちが、放射線の遅発的な影響によって、次々と不可解な形で亡くなっていきました。今日なお、放射線は被爆者たちの命を奪っています。

 広島について思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは4歳のおい、英治です。彼の小さな体は、何者か判別もできない溶けた肉の塊に変わってしまいました。彼はかすれた声で水を求め続けていましたが、息を引き取り、苦しみから解放されました。私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。
 私たち被爆者は、苦しみと生き残るための真の闘いを通じて、灰の中から生き返るために、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。

 9カ国は、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。

 今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択したとき、私は喜びで感極まりました。かつて人類の最悪のときを目の当たりにした私は、この日、人類の最良のときを目の当たりにしました。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器の禁止を待ち望んできました。これを、核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。

 責任ある指導者であるなら、必ずや、この条約に署名するでしょう。そして歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう。彼らの抽象的な理論は、それが実は大量虐殺に他ならないという現実をもはや隠し通すことができません。「核抑止」なるものは、軍縮を抑止するものでしかないことはもはや明らかです。私たちはもはや、恐怖のキノコ雲の下で生きることはしないのです。

 核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。

 世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。

 私は13歳の少女だったときに、くすぶるがれきの中に捕らえられながら、前に進み続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聞いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返したいと思います。「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 動き続けろ! 光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」

 今夜、私たちがオスロの街をたいまつをともして行進するにあたり、核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう。どのような障害に直面しようとも、私たちは動き続け、前に進み続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです。(END) 朝日新聞デジタルより
Award Ceremony Speech

Presentation Speech by Berit Reiss-Andersen, Chair of the Norwegian Nobel Committee, Oslo, 10 December 2017.

Your Majesties, Your Royal Highnesses, Distinguished Representatives of the Nobel Peace Prize Laureate, Your Excellencies, Distinguished Guests, Ladies and Gentlemen,
The International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) has been awarded the Nobel Peace Prize for 2017. On behalf of the Norwegian Nobel Committee, I take great pleasure in congratulating ICAN on this award.
ICAN is receiving the award for its work to draw attention to the catastrophic humanitarian consequences of any use of nuclear weapons and for its ground-breaking efforts to achieve a treaty-based prohibition of such weapons. ICAN's efforts have given new momentum to the process of abolishing nuclear weapons.
This year's Peace Prize follows in a tradition of awards that have honoured efforts against the proliferation of nuclear weapons and for nuclear disarmament. Twelve Peace Prizes have been awarded, in whole or in part, for this type of peace work. The first went to Philip Noel-Baker in 1959, and the most recent was awarded to Barack Obama in 2009. And now, this year, to the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN).

On two days in August 1945, the world experienced the terrible destructive force of nuclear weapons for the first time. The bombings of Hiroshima and Nagasaki instantly killed at least 140,000 people, the vast majority of whom were civilians. Hiroshima was utterly destroyed and large sections of Nagasaki were laid in ruins. But death was not finished with Hiroshima and Nagasaki in August 1945. The death toll continued to rise significantly in the years that followed, and survivors are still suffering from the effects of radiation today.

The devastation of Hiroshima and Nagasaki has taught us that nuclear weapons are so dangerous, and inflict so much agony and death on civilian populations, that they must never, ever, be used again.

Today's nuclear weapons are tremendously more destructive than the bombs that were dropped on Japan in 1945. A nuclear war could kill millions of people, dramatically alter the climate and the environment for much of the planet, and destabilise societies in a way never before seen by humanity. The notion of a limited nuclear war is an illusion.

Nuclear weapons do not distinguish between military and civilian targets. Used in war, they would impact disproportionately on the civilian population, inflicting vast, unnecessary suffering. It is virtually impossible for civilians to protect themselves against the catastrophic effects of a nuclear attack. The use of nuclear weapons – or even the threat of using them – is therefore unacceptable on any grounds, whether humanitarian, moral or legal.

Despite all this, it remains the case that the global balance of military power is maintained by nuclear weapons. The logic of this balance of terror rests on the proposition that nuclear weapons are such a deterrent that no one would dare attack a nuclear-armed state. The deterrent effect is said to be so strong that it alone has prevented war between the nuclear powers for the last 70 years. The empirical basis for this assumption is highly debatable. It cannot be claimed with any certainty that deterrence has worked as intended. It is also worth keeping in mind that nuclear deterrence requires a credible threat to actually use nuclear weapons. The weapons exist so that they can, if necessary, be deployed.

A number of international agreements and treaties have been entered into which limit the possession and development of nuclear weapons. The most important of these is the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons, or NPT. It takes considerable military and political insight to fully understand all the treaties, agreements and international legal instruments that regulate disarmament and arms control. The views that dominate the political debate are those of the great powers and powerful alliances.

ICAN arose as a protest against the established order. Nuclear weapon issues are not solely a question to be addressed by governments, nor a matter for experts or high-level politicians. Nuclear weapons concern everyone, and everyone is entitled to an opinion. ICAN has succeeded in generating fresh engagement among ordinary people in the campaign against nuclear weapons. The organisation's acronym is perhaps not a coincidence: I CAN.

ICAN's main message is that the world can never be safe as long as we have nuclear weapons. This message resonates with millions of people who perceive that the threat of nuclear war is greater than it has been for a long time, not least due to the situation in North Korea.

Another major concern of ICAN is that the current international legal order is inadequate to deal with the nuclear weapons problem.

The entry into force of the Non-Proliferation Treaty in 1970 was a historic breakthrough. It gave formal status to the nuclear powers of the day – the United States, the Soviet Union, the UK, France and China – as states with the legal right to possess nuclear weapons. All other countries that acceded to the treaty pledged, in so doing, not to acquire such weapons. In return, the legally recognized nuclear-weapon states undertook to begin negotiations in good faith to seek nuclear disarmament. This dual pledge is the very core of the Non-Proliferation Treaty, and both sides of it must be honoured to maintain the treaty's legitimacy.

Ladies and gentlemen, it is no exaggeration to say that the nuclear-weapon states have only to a limited degree honoured the disarmament commitment they made in the NPT. Let me remind you that in 2000 the NPT's Review Conference stated that the treaty calls for "an unequivocal undertaking by the nuclear-weapon states to accomplish the total elimination of their arsenals leading to nuclear disarmament". From an international law perspective, the five legally recognized nuclear-weapon states and their allies have thus assumed a responsibility to help achieve disarmament and a world free of nuclear weapons. If the disarmament process had been carried out as intended, ICAN's struggle for a treaty-based ban on nuclear weapons would have been unneeded. It is the lack of progress towards nuclear disarmament that has made it necessary to supplement the Non-Proliferation Treaty with other international legal initiatives and commitments.

The Non-Proliferation Treaty applies only to the countries that have acceded to it. India, Pakistan and Israel, which all have nuclear weapons, are not NPT members. Moreover, North Korea, which has carried out six nuclear test explosions, has withdrawn from the treaty. Global nuclear disarmament cannot take place without these countries, too, participating. Yet they reserve for themselves the same right to nuclear weapons as the five states that had acquired such weapons prior to 1970. The five legally recognized nuclear-weapon states, for their part, cite the nuclear arsenals of these other countries as one of several arguments for not yet being able to comply with the NPT's nuclear disarmament requirements.

It is in part to break this vicious cycle that ICAN has advocated a universal, treaty-based ban on nuclear weapons.

ICAN does not accept that the lack of progress towards nuclear disarmament is a realpolitik necessity. ICAN's premise is humanitarian, maintaining that any use of nuclear weapons will cause unacceptable human suffering. Binding international prohibitions have already been established for chemical weapons, biological weapons, land mines and cluster weapons, precisely because of the unacceptable harm and suffering that these weapons inflict on civilian populations. It defies common sense that nuclear weapons, which are far more dangerous, are not subject to a comparable ban under international law.

Pointing out this legal gap was a crucial first step on the road to a prohibition treaty. Another important step was the Humanitarian Pledge initiated by the Austrian Government in December 2014. The Pledge is a voluntary national commitment to seek to stigmatise, prohibit and eliminate nuclear weapons. ICAN has worked resolutely to muster broad international support for the Humanitarian Pledge. To date, 127 states have signed on to this commitment.

ICAN has also been a driving force in efforts to secure a binding international ban of nuclear weapons. On 7 July 2017, a final draft treaty was endorsed by 129 UN member states. The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons was opened for signature this autumn, and has been signed so far by 56 states. When 50 or more states have also ratified the treaty, it will become binding under international law for the signatory states.

ICAN is a young organisation, founded in 2007 on the initiative of the International Physicians for the Prevention of Nuclear War, which won the Nobel Peace Prize in 1985. ICAN is a loose coalition of 468 NGOs from more than 100 countries. It is impressive that ICAN is able to unite so many different groups in support of a common goal and give a voice to millions of people who are convinced that nuclear weapons do not provide security, but insecurity.

In awarding this year's Peace Prize to ICAN, the Norwegian Nobel Committee seeks to honour this remarkable endeavour to serve the interests of mankind.

The Nobel Committee believes that an international ban on nuclear weapons will be an important, possibly decisive, step on the road to a world without nuclear weapons. Such a goal is fully consistent with the essence of Alfred Nobel's will.

Ladies and gentlemen, ICAN's support for a global ban on nuclear weapons is not uncontroversial. We must acknowledge that the treaty has powerful opponents, but the idea of prohibiting and abolishing nuclear weapons is neither naïve nor new. As early as 1946, in the UN General Assembly's very first resolution, the United Nations called for nuclear disarmament and an international nuclear weapons control regime.

At the Reykjavik Summit in 1986, Mikhail Gorbachev and Ronald Reagan tried to halt the spiralling nuclear arms race between the two superpowers, and came close to concluding an agreement to abolish all long-range nuclear missiles. A year and a half earlier, President Reagan had addressed the people of the United States and the Soviet Union directly, saying:

"A nuclear war cannot be won and must never be fought. The only value in our two nations possessing nuclear weapons is to make sure they never will be used. But then, would it not be better to do away with them entirely?"

Today it is more important than ever to support this vision. While the global community may trust that no responsible head of state would ever order another nuclear attack, we have no guarantees that it will not happen. Despite international legal commitments, irresponsible leaders can come to power in any nuclear-armed state and become embroiled in serious military conflicts that veer out of control.

Ultimately, nuclear weapons are controlled by human beings. In spite of advanced security mechanisms and control systems, technical and human errors can occur, with potentially catastrophic consequences. Can we be sure that the control systems of the nuclear powers will not someday be sabotaged by hackers acting on behalf of hostile states, terrorists or extremists?

In short, nuclear weapons are so dangerous that the only responsible course of action is to work for their removal and destruction.

Many people think that the vision of a nuclear weapon-free world, a Global Zero, is utopic, or even irresponsible.

Similar arguments were once used to oppose the treaties banning biological and chemical weapons, cluster weapons and land mines. Nonetheless, the prohibitions became reality and most of these weapons are far less prevalent today as a result. Using them is taboo.

Ladies and gentlemen, the Norwegian Nobel Committee is aware that nuclear weapons disarmament presents far greater challenges than disarmament of the types of weapons I just mentioned. But there is no getting around the fact that the nuclear weapon states have committed, through the Non-Proliferation Treaty, to work towards disarmament. This is the ultimate objective of the treaty. Through its efforts, ICAN has reminded the nuclear weapon states that their commitment entails a genuine obligation, and the time to honour it is now!

In his Nobel lecture in 1959, Philip Noel-Baker took issue with the widely held opinion that complete nuclear disarmament is impossible to achieve in the real world. He quoted another Peace Prize laureate, Fridtjof Nansen:

"The difficult is what takes a little while; the impossible is what takes a little longer."

The people of ICAN are impatient and visionary, but they are not naïve. ICAN recognizes that the nuclear-armed states cannot eliminate their nuclear weapons overnight. This must be achieved through a mutual, gradual and verifiable disarmament process. But it is the hope of ICAN and the Norwegian Nobel Committee that an international legal ban, and broad popular engagement, will put pressure on all nuclear-armed states and expedite the process.

Ladies and gentlemen, there are two persons on the podium today who, each in their way, are outstanding representatives of the ICAN movement.

Madam Setsuko Thurlow, you were 13 years old when you experienced the bombing of Hiroshima. You have devoted your life to bearing witness to the events of 6 August 1945. You see it as your mission to describe the suffering, fear and death inflicted on your city. No one was spared. Little children, their parents, brothers and sisters, schoolmates and grandparents were killed. You say that war cannot be waged in this way, and that it must never happen again. You do not allow us to forget.

Beatrice Fihn, you are the Executive Director of ICAN and have the challenging task of uniting different organisations and interest groups in pursuit of a common goal. You are a splendid representative of the multitude of idealists who forgo an ordinary career and instead devote all of their time and skills to the work of achieving a peaceful world.

It is an honour to have you here as our guests, and we wish to express our deep and heartfelt gratitude for the work that you do. Our tribute also goes to all the individuals and organisations that you represent.

The decision to award the Nobel Peace Prize for 2017 to the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons has a solid grounding in Alfred Nobel's will. The will specifies three different criteria for awarding the Peace Prize: the promotion of fraternity between nations, the advancement of disarmament and arms control and the holding and promotion of peace congresses. ICAN works vigorously to achieve nuclear disarmament. ICAN and a majority of UN member states have contributed to fraternity between nations by supporting the Humanitarian Pledge. And through its inspiring and innovative support for the UN negotiations on a Nuclear Weapon Ban Treaty, ICAN has played an important role in bringing about what in our day and age is equivalent to an international peace congress.

In closing, I would like to quote His Holiness Pope Francis, who recently declared: "Weapons of mass destruction, particularly nuclear weapons, create nothing but a false sense of security. They cannot constitute the basis for peaceful coexistence between members of the human family, which must rather be inspired by an ethics of solidarity."

The Norwegian Nobel Committee shares this view. Moreover, it is our firm conviction that ICAN, more than anyone else, has in the past year given the efforts to achieve a world without nuclear weapons a new direction and new vigour.

Thank you.
(End)
Nobelprize.org

The Nobel Peace Prize 2017
International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN)



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陛下、殿下、そして紳士淑女の皆様。

 大きな外国人の顔、西欧の男の人の顔が、私の本の1ページを埋めるようにカラーで描かれていたのを、鮮明に記憶しています。堂々とした顔の後ろの一方に見えたのは、爆発による煙とほこりでした。もう一方に描かれていたのは煙の中から空へと昇っていく白い鳥でした。私は5歳で、伝統的な日本の家の畳の部屋で腹ばいになっていました。この瞬間が印象に残ったのは、私の後ろの方で、ダイナマイトを発明した人が、その使われ方を心配して(日本語で)「のーべるしょう」を作ったと話す母の声に特別な感情がこもっていたからです。「のーべるしょう」という言葉を日本語で聞いたのは、これが初めてでした。「のーべるしょう」はね、と母は言いました。(同)「へいわ」を促進するためにあるのよ、と。「へいわ」はピースやハーモニーという意味の日本語です。私の街、長崎が原爆によって壊滅的な被害を受けてから14年しかたっておらず、まだ年端もいかない私でも、平和とは何か大切なものであること、それがなければ恐ろしいものがこの世界を襲うかもしれないことを分かっていました。

 ノーベル賞は他の偉大な賞と同じく、小さな子どもでも分かるようなシンプルなもので、それがきっとこれまで長く世界の人々の想像力をかき立て続けてきた理由でしょう。自分の国の人がノーベル賞を受賞したことで感じる誇りは、オリンピックで自国の選手がメダルを勝ち取ったのを見て感じるものとは違います。自分の部族がほかの部族より優れていることを示したからといって、誇りをもったりはしません。むしろ、自分たちのうちの一人が人類共通の努力に著しい貢献をしたことを知って得られる誇りです。わき上がる感情はずっと大きく、人々を融合させてくれるものです。

 私たちは今日、部族間の憎しみがますます大きくなり、共同体が分裂して集団が敵対する時代に生きています。私の分野である文学と同じく、ノーベル賞は、こうした時代にあって、私たちが自分たちを分断している壁を越えてものを考えられるよう助けてくれ、人間として共に闘わねばならないことは何かを思い出させてくれる賞です。世界中で母親たちがいつも子どもを鼓舞し希望を与えてきたような、母親が小さな子どもに言って聞かせるようなものです。このような栄誉を与えられて、私はうれしいと思っているでしょうか? ええ、思っています。私は受賞の知らせを受けて直感的に、「のーべるしょう」と声に出し、その直後に、いま91歳の母親に電話しました。私は長崎にいた時、既に多少なりとも賞の意味を理解しており、今も理解していると思っています。ここに立って、その歴史の一部になることを許されたことに感動しております。ありがとうございます。

(毎日新聞)

★広島で被爆したサーロー節子氏、長崎で母親が被ばくしたカズオ・イシグロ氏。いみじくもこの2人が今年のノーベル平和賞と文学賞に関わった。素晴らしい核廃絶への第一歩。


2017年12月08日 (金) | 編集 |
★2017年12月の Windows Update の不具合情報 (12月7日更新)
https://freesoft.tvbok.com/cat97/2017/2017_12_windows_update.html

はぁ…win7のwindows updateが不具合なんて知らなかった。

マイクロソフトからのニュースでは、すでに解決済みだから何もしないでも、再起動して5~10分待てば元に戻る、と言ってるけど、我が家は何度再起動しても赤い×になって「現在サービスが実行できないため、windows updateで更新プログラムを確認できません。このコンピュータの再起動が必要な可能性があります」と出てしまう。焦ってシステム復元したり、あれこれ解決策を七転八倒した後、やっとこさ解決できました!

もし私のように何度再起動しても↑のような状態になる場合は、「スタートアップ⇒コントロールパネル⇒回復⇒(左ウィンドウの)問題のトラブルシューティング⇒システムとセキュリティ⇒windows updateで問題を解決する」をトライしてみてください。私の場合はこれで解決しました。


2017年12月08日 (金) | 編集 |
★世界一のクリスマスツリープロジェクトの時系列年表
http://iina-kobe.com/entry88/

こうして時系列で俯瞰するとこのプロジェクトがどれほど生臭く、胡散臭いか、そして、現在進行形で自然破壊に寄与しているかよ~くわかります。サイテーだな!


2017年12月02日 (土) | 編集 |






★神戸港巨大ツリー 催事後伐採「神社の鳥居に」(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171201-00000000-kobenext-l28 @YahooNewsTopics
★オープニングセレモニー点灯式に槇原敬之が登場 神戸メリケンパーク「世界一のクリスマスツリー」 http://kisspress.jp/articles/15756/
★神戸・世界一のツリー、樹齢150年の大木を伐採して「考えて」→炎上 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11284 @WEDGE_Infinityさんから
★“世界一に”神戸のツリー点灯式|NHK 関西のニュース http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20171202/3164091.html
★「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT ~輝け、いのちの樹。~」記者会見を開催!プラントハンター 西畠清順が挑む史上最大の樹木輸送、光り輝く世界一のイベント... https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000028879.html @PRTIMES_JPさんから
★フェリシモ‏ @FELISSIMO_SANTA
11月30日
「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」についてのご意見とご質問を受けまして、弊社のプロジェクトとの関わり、および今後の協力のしかたについて、ご説明をさせていただきます。くわしくはこちらをご覧ください。
https://www.felissimo.co.jp/contents/lp/
★「あすなろの木について寄せられるご意見等について 〜清順より大切なメッセージ〜」★このイベントの主催者、プラントハンター西畠清順氏のページ
http://soratree.jp/

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東京新聞(2017年11月25日)
★神戸に世界一の生きたクリスマスツリーが設置【動画・写真】: https://jp.sputniknews.com/japan/201712024339160/ @sputnik_jpさんから

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この話を聞いたとき一番に頭に浮かんだのが「花とおじさん」、「キングコング」、そして「モスラ」だ。大勢の見物客が見守る中、2日の日没時に有名人のミニコンサートと、けたたましい花火の連打と、原色に近い色の洪水のようなライティングに照らされたあすなろの木が、自分の意に反して故郷から遠く離れた都会のど真ん中に連れてこられ、眩しいスポットライトと人々の嬌声の渦に晒されたキングコングでありモスラの卵の姿に重なった。

プラントハンターはあすなろの木が「私をここから出して。外の世界へ連れて行って。そして最期を見届けてください。」と囁くのを聞き、願いを適えようとしているのか?それとも、キングコングやモスラに登場するイベント屋のように、未開の土地で発見した未知の生き物を、現地の人を騙し、自然を蹂躙し、金儲けのために都会へ連れて来て見世物にしているのか?

イベントに足を運んだ人の情報によると、イベント会場には露天のような店が出ていて、そこにはプラントハンターがあすなろの木を見上げている姿を使用したクリアファイルが売られていたそうな。「神戸淡路大震災への鎮魂」の意味もあるツリーに飾るオナメントの反射板は観客が有料で購入し、そこに願い事を書いて飾るんだそうな。

花を摘んだおじさんは約束通り、花の命が終わるのを見届けたけど、このプラントハンターは?

モスラは幼虫に命を託し果てるし、コングは人間の女に恋をし、都会で悲惨な最期を遂げる。でもそれでもコングもモスラも果てる瞬間まで思い切り暴れ、自分勝手な人間にリベンジすることができるけど、樹は物言えず、逃げられず、ただただ人間の言うがままに従うしか術がない。

150年、富山の山中でひっそりと生きてきたあすなろの木が、一人のプラントハンターの手で掘り起こされ、氷見漁港から船に乗り神戸港へ。そして潮風吹きすさぶ港に鉢植えされ、「世界一のクリスマスツリー」ギネス記録挑戦を兼ねたクリスマスイベントに使用され、花火や電飾やオナメントでデコられ、クリスマスが終わったら伐採され、バングルに加工され売り出されるはずが、炎上騒ぎに怖気づいた西畠氏の商売仲間、販売元のフェリシモが白紙撤回。イベント発表当初はバングル以外は「未定」となっていた再生利用法。なのにバングルに加工して販売する話が白紙撤回されたと同時に今度は「最初から決まっていた話」として神社の鳥居の柱に、という話が急浮上。どこまで胡散臭いんだ。キリスト教のイベントに使った後に伐採して神社の鳥居に使う?何の考えもなしの「使い回し」にしか思えない。本気で祟られるぞ。長崎のハウステンボスから断られたから神戸へ、という話も漏れ聞こえてきます。民放の人気番組「情◎大◎」とのタイアップも企画されているような噂もあります。電通がらみ?どこからどこまでお金の臭いがプンプン。金儲け…。

忽ちネットで大炎上。プラントハンターとイベント関係者に対する「疑惑」「不審」が全国に広がり、批判の声が上がっている。

「応援してくれる人や団体に心配や迷惑を掛けたことは謝罪するが、世間に謝っているわけではない。ツリーを見るのが嫌な人は見なければいい」という発言でもわかるように、プラントハンターは昔からある職業っていうか一種の冒険家だと個人的には思ってる。好奇心旺盛な冒険家って聞こえはいいけど、未知のものを既知のものにする=我が物にするメンタルがないと務まらない。昔なら王侯貴族の娯楽趣味を満足させるため&領土拡大のために未知の土地に行き、そのついでにその土地のあらゆる珍しい植物を集めては母国へ持ち帰る。海を渡って未開の土地に降りては侵略を繰り返したヨーロッパ人が多いのかな?西畠さんも、つまりはそんな「侵略者」のメンタルの持ち主だと思うから、普通一般人とは相いれない考えの持ち主。樹木=木=気=鬼(神)、八百万の神の棲む場所として考えて恐れ敬う日本人には理解不能な職業よね。

今日12月2日にツリーの点灯式が催され、No1にならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン、と発信して日本中を感動させた槇原敬之が、「世界一」に拘るツリーのために唄う?なにからなにまでがっかりなイベントだね。有名人を客寄せパンダにして盛り上げる方法がピースワンコそっくりでゾクッとする。

150年育った土地で果てる自由も許されず、この樹は見世物になった後に伐採される。