薫の野郎猫的日常
2017年08月15日 (火) | 編集 |
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保護主さまへ

おはようございます。
お元気でいらっしゃいますか?
万里は元気です。
 
よく食べよく出しよく眠り。
たまに他の猫の食べ残しまで食べてゲロします。
 
触れる時たまにビクッとしたり、
横を通る時にぎょっとして逃げ出したり、
まだまだ人間怖いモードも残ってます。
 
夜になるとそばにくっついて来たり、甘えたり、
寝具をモミモミしたり、じ~っと見つめてくれたり、
顔や手を舐めまわしたりもしてくれます。
 
撫でてる時にあまりにしつこいと表情が険しくなり、
シッポをぶんぶん振り回し、それでも止めないと、
犬歯しか残っていない歯でカプッと噛みつき、
噛みついたまま猫キックします(笑)
で同居人はというと、
猫キックをしてほしくてまた撫でまわす毎日です。
 
鼻の調子は相変わらず。
鼻雑音が聞こえることもよくあります。
が、逆くしゃみは出ませんし、
本猫も苦しそうではありませんし、
食欲がなくなることもありませんし、
熱も出ないので何もせずそのままにしてます。
 
かかりつけの獣医とも、
「万里を子猫の頃から育て上げた先住たちの健康状態と比較しない」
と決めてます。
でないと万里が可哀そう。
私も一喜一憂して振り回されたくないですし。
子猫の頃からずっと苦労してきた猫ですから。
万里にとっての一番いい状態を見極め、
そことの比較によって体調の良し悪しを判断しようと思います。
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2017年08月15日 (火) | 編集 |
今日は終戦記念日。
でも本当の意味での終戦は訪れていないと思います。

「戦争は人間が起こした」ことだと誰も教えてくれなかった。
神風を信じ、天皇を信じ、日本軍を信じた。
信じなければ生きてはいけなかった。
「日本は負ける」「負けるかもしれない」などと口にすれば一家もろともどんな目に遭うか。
そんな空気があった。
でも、国策映画しか作れなかったこの国にいながら、仕事でディズニーの「白雪姫」を観た瞬間、若き淀川長治は、そのあまりの国力の違いに、「なんで日本はこんな豊かな国と戦争などするんだ」と思ったそうだ。

日本は戦争に負ける。
そう思っても、誰もそのことを口にすることをしなかった。
できなかった。

大半の日本国民は「真実」など知る由もない。
曲げられた真実を信じていた。
信じさせられていた。
信じるしかなかった。

誰も教えてくれなかった。

世界11億のカトリック信者の宗教的指導者であるとともに、宗教を超えて平和を訴え続けたローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、1981年、広島・長崎を訪れました。
この時、法王が語りかけた「平和アピール」。
36年経った今読んでも色褪せない、力強い言葉です。
そして戦後歴代の日本のリーダー誰も、教えてくれない言葉がここにはあります。
今こそ、すべての日本人、特に日本の政治家に読んでほしい。
 
  平和アピール  ヨハネ・パウロ二世(来日の時のアピール)
 戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。
 この広島の地、この平和記念公園で、人は特に強くそのことを感じます。信じられないほどの破壊力を思いおこさせる、不幸な運命をになった二つの都市、それは広島と長崎であり、それ故にこの二つの都市の名は永久に語られるでしょう。世界平和を築きあげるという人間の営みを打ち砕くのは戦争であるという警告を、次代の人々に告げるため、我々の時代から選ばれたのが、二つの都市であり、それ故、広島と長崎の名は、いつまでも人の心に残るであリましょう。
 広島市長をはじめ、ここに集まられた友人の皆さん、私の声に耳をかたむけているすべての方々、私のメッセージが届くすべての方々に申します。
1.本日、私は深い気持にかられ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動をおぼえています。私がこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことだ、という強い確信を持っているからです。この地上のありとあらゆる所に、戦争のもたらした惨事と苦しみの故に、その名の知られている場所が数多く、あまりにも数多く、存在しています。それは、人類の犯した悲しむべき行為だと言わねばなりません。戦勝記念碑―それは一方の側の勝利の碑であると同時に、数多くの人々の苦しみと死を物語るものです。国のために命を落とした人々、崇高な目的に命を捧げた人々が横たわる墓地があります。同時に、戦争のもたらす破壊の嵐の中で命を失った、罪のない一般の人々が横たわる墓地もあります。強制収容所や死体処理場の跡―そこでは、人間と侵すべからざる人権とが卑められ、野卑と残酷とが最も強くあらわされたところでした。戦場―そこでは、自然が慈悲深く地上の傷を癒していますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。こうした数多くの場所や記念碑の中でも、特に広島、長崎は、核戦争の最初の被災地 として、その名を知られています。
 あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考える時、私は頭を垂れざるを得ません。また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生きのび、ついに破滅へと向かった人々のことを想う時にも、同様の気持ちに打たれるのであります。この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。人間の考えやものの見方、ないし人問の文明に対して、核戦争をもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考える時、特にそうした想いにかられるのであります。
2.過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。広島市の皆様は、最初の原子爆弾投下の記念碑を、賢明にも平和の記念碑とされました。私は、この英断に敬意を表し、その考えに賛同します。平和記念碑を作ることにより、広島市と日本国民は、「自分たちは平和な世界を希求し、人間は戦争もできるが、平和を打ち立てることもできるのだ」という信念を力強く表明しました。この広島から、この広島での出来事の中から、「戦争に反対する新たな世界的な意識」が生まれました。そして平和への努力へ向けて新たな決意がなされました。
 核戦争の恐怖と、その陰惨な結末については、考えたくないという人がいます。当地での出来事を体験しつつも、よく生きてこられた入々の中にさえ、そう考える人がいます。また、国家が武器を取って戦い合うということを、実際に経験したことのない人々の中には、核戦争は起こり得ないと考えたがる入もいます。さらに、核兵器は、力の均衡を保ち、恐怖の均衡を保つため、致し方のないものだとする人もいます。しかし、戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果すべき役割、個々人の役割を、考えないで済ますことは許されません。
3.過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、我々が抱く「現代の課題」の意味を、より良く理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますます増え、破壊力をも増大しています。
 核兵器は依然として製造され、実験され、配備され続けています。全面的な核戦争の結果がいかなるものであるか、想像だにできませんが、核兵器のごく一部だけが使われたとしても、戦争は悲惨なものとなり、その結果、人類の滅亡が現実のものとなることが考えられます。私が国連総会で述べたことを、ここに再び繰り返します。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争へ向けての準備が絶えまなく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備が整うということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、ある時、どこかで、何らかの形で、誰かが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険をおかすということです。」
4.過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃墟を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります。戦争という人間が作りだす災害の前で、「戦争は不可避なものでも必然でもない」ということを、我々は自らに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、杜会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題を抱えており、そのために、国家問の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家問の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理にそって、解決されねばなりません。それは、人類にとって肝要なことで す。国内秩序を守るために法が制定されるように、世界の国々には、国際関係を円滑にし、平和を維持するための法制度が作りあげられなくてはなりません。
5.この地上の生命を尊ぶ者は、政府や、経済・社会の指導者たちが下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からではなく、「平和の為に何が必要かが考慮してなされる」よう、要請しなくてはなりません。目標は、常に平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに充ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。
6.35年前、ちょうどこの場所で、数多くの人々の生命が、一瞬のうちに奪い去られました。そこで、私はこの地で、「人間性のため、全世界に向けての生命のためのアピール」を、人類の将来のためのアピールを、出したいと考えます。
各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。
正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。
今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないという固い決意をしようではありませんか。
人類同胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。
暴力と憎しみに代えて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。
この国のすべての男女、全世界のすべての人々に次のように申します。
国境や社会階級を越えて、お互いのことを思いやり、将来を考えようではありませんか。
平和達成のために、自らを啓蒙し、他人を啓発しようではありませんか。
あい対立する社会体制のもとで、人間性が犠牲になることが決してないようにしようではありませんか。
ふたたび戦争のないように力を尽くそうではありませんか。
全世界の若者たちに、次のように串します。
ともに手を取り合って、友情と団結のある未来を作ろうではありませんか。
窮乏の中にある兄弟姉妹に手を差しのべ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。
あなた方の若い精神は、善と愛をおこなう大きな力を持っています。人類同胞のために、その精神を使いなさい。
私はここで預言者の言葉を繰り返します。
すべての人々に
「彼等はその剣を鋤にうちかえ、そのやりを鎌にうちかえる。国は国にむかいて剣をあげず、戦闘のことを再びまなばない。」(イザヤ書2-4)
神を信じる人々に申します。
我々の力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。
神が我々の一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。
愛を持ち自己を与えることは、彼方の理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目ざめようではありませんか。
最後に、自然と人類の創造主、真理と美の創造主に祈ります。
私の祈りの声をお聞き下さい。それは個人や国家の間のあらゆる紛争や暴力の犠牲者の声だからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。それは人々が武器と戦争にたよる時、苦しむすべての子供たちの声だからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。すべての人間の心の中に、平和の持つ英知と、正義の
持つ力と、隣人愛の持つよろこびとをもたらしてくださるよう、祈っているからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。戦争を嫌い、平和の道を歩もうとするすべての国、すべての時代の人々に代わって祈っているのですから。
私の祈りの声を聞き、英知を与えてください。憎しみには愛をもってあたり、不正には完全な正義をもってあたり、窮乏に悩む者には己れを与え、戦争には平和をもってこたえることが出来ますように。
神よ私の祈りを聞き、世界にあなたの「永遠の平和」を与えて下さい


2017年08月15日 (火) | 編集 |
「国のため、愛する人のため身を投げ出した若者の魂は美しい、敬うべきだ」と仰る方は、生まれた時から戦争を知らず、民主主義をお腹いっぱい謳歌されていること、当時、国がどのようなイデオロギーで、若者たちがどのような教育を受けていたかを綺麗に無視されている。

★あとおれが戦争行きたくないって意見にコメントに「だったら日本からでていけ!」とか「お前は朝鮮人か!」とか「お前みたいなやつ黙れ!」って意見あったのみて、この声が、戦争漫画でよくみる「この非国民が!」かと。そーいうやつから順番に戦闘機に乗せる法案を提案したい。

特高に行く直前に撮った写真でなぜ彼らはあんな輝く笑顔を見せられるのか?お国のため死ぬことが誉れという教育を受けて育っているからじゃないの?

★私の父は予科練の生き残りでしたが、天皇陛下のために死ぬことに何の疑問もなかったと言ってました。全面的に信じていいのかどうか、もはや確かめようもありませんが、そういう時代だったからと、たびたび言ってました。

あの時、国のため、愛する人のため身を投げ出した若者がもし、今のこの時代に生まれ、今の教育を受けていたとしても、あの日と同じことをしたかどうか…もしかすると真逆のことを言い、まったく反対の行動をしてたかもしれないとも思うのです。

私の父は幼い頃を満州で過ごし、熊本に引き揚げてすぐ長崎に働きに行き、そこで被爆しました。しかし、父は満州時代も被爆のこともほとんど口にすることなく、次世代に「なにか」伝えることなく亡くなりました。これもまた「そういう時代」だったからでしょう。でも「そういう時代」ってどういう時代? 

★「そういう時代」について正確に語ることは当事者でも難しいでしょう。そういう概念に過ぎないものと思います。

だったら「そういう時代」ってひとくくりで済ませちゃいかんと思うのです。一言で済ませられることじゃない気がします。だって「そういう時代」がどういう時代だったか、今まで誰も説明できた人はいないのですから。

お願いです。「そういう時代」ってどういう時代だったか、どなたかわかるように教えてください。

母方の父の仕事の都合で台湾で育った母は、台湾とは比較にならないほど貧しい、匍匐前進しながら機銃掃射の弾をよけながらの畑仕事の行き帰り、熊本に帰ってきてからの命がけの戦中戦後の想い出を少しばかり話してくれた。そのほんの少しばかりの話だけでも、十分、子供心にうなされそうになるような中身だった。(でもその中で祖母が作ってくれた太い手打ちうどんを男兄弟と競ってどんぶりで、呑みこみながら食べた話は今も美味しそうだと思う。)(母は作らなかったが、祖母の家に遊びに行くと季節ごとに作ってくれる、台湾仕込の粽ぽいせいろで蒸した鶏と牛蒡と人参、生姜が効いたもち米、鶏と生姜の効いた汁物の美味しさは今も覚えている)

無言を通した父、少しばかりの想い出話を聞かせてくれた母。どちらにしても饒舌ではなかったし、お国のために命を捧げることが尊いとも、無駄死にだったとも一度も口にはしなかった。でも彼らの言葉少ない中に、喜怒哀楽のすべてがまじりあっているような気がします。

私は、この平和な時代に生まれ育ったことに感謝しています。よかったと思います。戦争は嫌だし、お国のためじゃなく自分のために生きて死にたい。この国の為政者が、大人たちが、今のままの世界を子供たちに残せるよう、戦争をしないよう、巻き込まれぬよう、「そんな時代」に戻らぬよう、叡智と知恵を尽くしてくれることを願う。「こういう時代」を壊してくれるな。