薫の野郎猫的日常
2017年08月13日 (日) | 編集 |



2017年8月6日放送 NNNドキュメント「4400人が暮らした町~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園」

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。
広島に落とされた原爆。
爆心地の中心、産業奨励館の川向う、今の平和公園には4400人が暮らす街があった。
元住民が公園を訪れていた子供たちにそのことを伝えると、
「それ間違ってるよ。ここは公園だよ。町なんかなかったんだよ」

原爆ドーム(元「産業奨励館」)の川向に一軒の割烹旅館があった。
「吉川旅館」
吉川晃司の祖父母が営んでいた。
吉川の父が生まれ育った場所。
吉川家は疎開していて難を逃れたが、
吉川の父だけは原爆後に爆心地へ戻り被爆した。
所謂「入市被爆者」
そしてそれから20年後に吉川が生まれた。
吉川の父は今も原爆、被爆について多くを語ろうとはしない。
被爆2世の吉川も年月を重ねて初めて、父の気持ちを察することができるようになった。

「時代が変わって海外からも多くの観光客が訪れるようになったんだから、
なんとかこの平和公園はかつて町だったことを教えてほしいね」

「やっと世界が核に対して声を上げ始めた。つい最近、核兵器禁止条例までできたって言うのに、なんで日本は参加しないの?」

「まだこの国は戦争が終わってないんだよね」

広島で原爆を表す「ピカ」と「ピカドン」
この2つの言葉には被爆者と爆心地との距離を表す。
「ピカ」は瓦まで溶かした熱線を表す。
爆心地から2キロまでが「ピカ」
その後の「ドン」を聞くことを許された人たちは爆心地から2キロ以上離れた場所にいた人たち。

吉川の故郷、中島地区の人々も「ドン」を聞くことができなかった人々。

吉川家から旅館を受け継いだ船本家。
どんな人たちだったのか。

全滅だと思われていた船本家の人が広島市内に住んでいた。
しかし、原爆のことは一切話したがらない。
が、吉川のためにと、重い口を開き、旅館のことだけは話してくれた。

中島地区で生まれ育った元住民にとっては、ここは公園じゃない。
楽しい想い出がたくさん詰まった、生まれ育った生活の場所であり故郷。
洒落た洋館風の産業奨励館を誇りにしていた。
川向こうには4400人が暮らしていた。
そこには町があった。
でもそれを知っている人は決して多くはありません。

長崎で被爆した父と同じだ。
何も語りたがらなかった父。
その重い沈黙こそが真実。