薫の野郎猫的日常
2017年08月12日 (土) | 編集 |
浦上天主堂 

父が被爆した長崎。

NHK-BSの「幻の原爆ドーム」興味深い番組だった。なぜ長崎版原爆ドームと言われた浦上天主堂は戦後9年目に壊されたのか。現代の私たちからすれば、残すべきだと思う。でもあの時代、悲惨な記憶を消し去りたい人々、一刻も早い復興を願う人々もいた。安易に犯人探しに結論付けない姿勢に共感。

長崎の原爆ドームである浦上天主堂がなぜ取り壊されねばならなかったか。金と権力。そして、アメリカは、偶然であってもキリスト教の象徴である教会に原子爆弾を落としたという記憶を消さねばならなかった。

取り壊しを主導した当時の長崎市長 田川務と(大)司教 山口愛次郎、行政と宗教のトップ達の渡米の謎。

もしあれが教会じゃなかったら…広島と同じ宗教的でない建物だったら、きっと今も残っていただろうね。

踏絵でキリシタン弾圧していた土地に建てられた浦上天主堂。そこが被爆した。神の怒りだと信者は苦しんだ。

だからこそ、原爆を忘れたい。同じ土地に新しい聖堂を再建したい。

戦勝国で豊かなアメリカの力が働いたのか?それとも故郷の事情と長崎の民の「真の願い」に寄り添ったのか?

本当は長く保存したかったのか?それとも何もかも新しくして再スタートを切りたかったのか?

自らも多くの親類縁者を原爆で傷つけられた二人がどのような気持ちで爆心地でかろうじてその姿をとどめていた浦上天主堂を取り壊すに至ったか…

広島と長崎。

被爆後、いろんな意味で全く違った道を辿った。それは今も、原爆忌での市長たちの平和宣言の内容にも表れていると感じます。

怒りの広島、祈りの長崎。永井隆先生の影響か?

広島同様、浦上天主堂も被爆した姿のままで残してほしかった、という言葉は今の平和で豊かな時代に生きるものだから言えることなのかも…当時の人々は心の中でそう思っても言えるような時代ではなかったのかも。


「たとえ明日世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」
浦上天主堂の次に節子サーローさんのドキュメンタリーを観ています。
沈黙の閃光/ セツコ・サーロー


「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」始まりました。 原爆が投下された浦上地区。カトリック信者と被差別部落の人々は、戦後長く被爆体験を黙して語らなかった。

奇しくもBS1の浦上天主堂のドキュメンタリーにつながるような部分があったETV特集だった。浦上という場所はキリシタンの受難の歴史と被差別部落の人々の苦難という本当に重く複雑な歴史を抱えてきた場所だった。キリシタンと被差別部落という「二つの浦上」。迫害、差別という風土が長く浦上にあった。それだけでなく、迫害されたキリシタンと彼らを迫害してきた部落民という二つの浦上の中での対立。加えて彼らを迫害、差別してきた長崎市民。移住してもなお差別してくる日本国民。根が深過ぎる。

長崎市は「被差別部落はない」と発表。原爆投下の浦上地区には、靴製造の被差別部落「浦上町」があったのに。東洋一の美しいお御堂がある浦上上空に原爆が投下されたのは、小倉が曇りだったから。第2候補地の長崎が晴れていたから。原爆投下を機に、被差別部落「浦上町」はないことにされそうになっていた。

怒りの広島、祈りの長崎。
永井隆先生の影響か?
※日本基督教学会第64回学術大会、広島女学院大学で開催(2)なぜ「怒りの広島、祈りの長崎」なのか? : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ http://www.christiantoday.co.jp/articles/22143/20160927/jscs-2.htm

「浦上は神に捧げられた仔羊=犠牲である」→「憎しみは口にすべきではない」
信者の思いを代弁した一方で、その言葉が、つらい思いを発したい信者の思いを封じてしまった。

永井隆の燔祭説(はんさいせつ)によって、信者たちが黙らざるを得なかった。
※燔祭(-はんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。 その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというもの。

怒りの広島に対して、祈りの長崎というのは、そういう側面もある。

長崎は怒りを表現するのが遅かったのかもしれない。

「被爆者と被差別部落の2重差別から逃れて大阪に行ったが、そこでも差別はあった。憎しみは今も消えない。」
「毎年、夏の太陽の激しい太陽の照りつけが来るたびに悲しみがこみ上げてくる。」

被差別部落出身者の中村由一さん「小学生の頃、私は名前ではなく、ずっと【ハゲ】【原爆】などと呼ばれていたのに、先生は卒業式の時だけ戸籍上の名前で呼んだ。もしその時【ハゲ】とか【原爆】と呼ばれていたなら返事して立っただろう。が、そうじゃなかったから自分の意志で返事せず、立ちもしなかった。でも卒業証書だけはもらった。母のため。土方しながら自分たち子供を学校に行かせてくれた母のため。証書をもらった後、級友から取り上げられ破かれそうになり必死で取り返し、母に渡した」

中村さんは若い世代に問う。「この世からいじめや差別はなくなると思いますか?」

「私はいじめや差別がこの世界からなくなると思います」

浦上のキリシタンと被差別部落。
長くキリシタンだった被差別部落の人々を仏教に改宗させたのは時の権力者。権力で彼らをキリシタン弾圧のため利用した。
浦上4番崩れ。
被害者と加害者。
長く深い沈黙を破るきっかけはローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来日だった。
※ローマ法王「平和のメッセージ」⇒ http://www.geocities.jp/setuoh/houou.htm

「戦争は人間の仕業だ」「戦争は死である」

戦争は人間の仕業とはっきり法皇様が教えてくださった。自分たちの住んでる場所へ原爆を落としたのは人間であって、天罰ではなかった。

長く深い沈黙を破り、浦上のキリシタンも被差別部落者も次の世代に、世界に自分たちの体験を伝えようとしている。

2017年08月12日 (土) | 編集 |
8月12日。
羽田空港18時12分発伊丹空港行のJAL123便ボーイング747型ジャンボ(乗員乗客524名)が、18時56分に群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落。520名もの命が失われました。4人の方の生存は奇蹟と言えましょう。

1985年の御巣鷹山墜落事故から32年。
33回忌。
忌上げ、弔い上げ。

キャンドルナイト2 

築地の広告代理店でJAL機内放送制作を担当していた私にとっても、一生忘れられない日です。

特別な日。
1985年のあの日も今年のように猛烈に蒸し暑かった。
いつものように上司が先に退社。
麻雀だろう。
私もいつも通りに残業。
オフィスのつけっぱなしのテレビ…
夕方6時のニュースが始まり、最初こそ普段通りの進行だったが、それからしばらくして頻繁に速報のテロップが。
「JAL羽田発大阪行き123便、レーダーから機影が消えた?」
最初は意味が分からなかった。
でも顔がこわばり、緊張感に溢れた声の露木茂アナの特番に変わり…
こりゃ、大変だ!
上司のいそうな雀荘に電話をかけまくり、6時半過ぎにやっとこさ探し当て指示を仰いだ。
今はただ静観するべし、なにもするな、向こうからかかってくるのはいいが、こちらからはクライアントにも電話するな、とのこと。

次の日から平常業務と同時に…


搭載されていた機内誌「Winds」の特集が上野村だったので、急きょ刷り直ししました。
一生、坂本九さんの歌をプログラムにもBGMにも流せなくなりました。
事故機の生存者の方から事故発生時刻に落語を聞いていたとの証言があり、正確な事故発生時刻を割り出せると思われたのですが、あれは無限にループしているのでそれは適わず。

事故に関することで話せるのは仕事関連のみ。

それ以外のことは棺に中に持っていく。
言えないことがたくさん。
想いだすのも辛い。
でも絶対死ぬまで忘れない。
忘れたくても忘れられないし、忘れちゃいけない。

あの時、会社代表として現場に赴き、犠牲になられた方々のご遺族に頭を下げ続けたJAL社員たちのなかに、私のクライアントも大勢いたが、彼らもきっと今も様々な感情の渦巻く中で32年目の今日を迎えるであろう。

あの日のことを、あの事故のことを知っているからこそ、あの事故に係る方々、皆さんのお気持ちが他の方より少しですが理解できます。

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忘れません!

この惨事を元に書かれた小説で有名なのが、山崎豊子の「沈まぬ太陽」と横山秀夫の「クライマーズハイ」。どちらとも映画化された。山崎豊子はすでにこの世を去りましたが、当時、あの現場にいちばん多く足を運んだと言われる地元群馬の新聞記者だった横山さんが、重い口を開いた。

惨状を前に、圧倒的な無力感 日航機事故と横山秀夫さん
聞き手・加藤修2017年8月11日13時44分
⇒惨状を前に、圧倒的な無力感 日航機事故と横山秀夫さん:朝日新聞デジタルより転載。http://www.asahi.com/articles/ASK88530KK88UTIL020.html

羽田発伊丹行きの日航ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落してから12日で32年。作家の横山秀夫さんがこの事故に向き合った「クライマーズ・ハイ」は、「半落ち」「64」と並ぶ代表作だ。横山さんに、事故への思いと執筆の背景を聞いた。
 ――520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から今年で32年になります。
 この時期になると今も気分が沈みます。テレビで特別番組があってもリアルタイムで見る気になれなくて。録画はするんですけどね……。
 ――当時、最も御巣鷹の現場に通った記者だと聞いています。
 地元紙ですから、事故直後から2カ月近く、ほぼ毎日登りました。記者を辞めたあとになって、出版社の人から「御巣鷹の現場の惨状をノンフィクションで書かないか」と声をかけられたことがありました。引き受けましたよ。当時は作家デビューをしそこね、マンガの原作もうまくいかず、経済的に困窮していました。あさましい話ですが、「これを書けば世の中に出られるかもしれない、チャンスだ」と思ったんですね。
 ――「クライマーズ・ハイ」の前にそんな作品があったなんて、初めて聞きました。
 いや、書き上げていません。というか、ほとんど書けなかった。一報を聞いて墜落現場に向かい、8時間かけて山を登って到着し……そこで筆がぴたりと止まって。現場を書こうとするたび嘔吐(おうと)して。あの事故を踏み台に世の中に出よう、生活費を得ようなんて考えた自分に押しつぶされたんでしょうね。それで誓いました。金に困っていない時に改めてあの事故と向き合おうと。
 ログイン前の続き――「クライマーズ・ハイ」を書き始めたのは2001年です。ノンフィクションを断念してからは5年以上、「陰の季節」で作家になってからでも3年経っていますね。
 本が売れはじめて、生活が安定してきた時期でした。日航機事故のことは常に頭の隅にありましたが、警察小説の執筆に追われていて、書くきっかけがつかめなかった。あれだけの経験をしていながら書かないのはおかしい、逃げているんじゃないかと自問したりもしましたが、実際のところ、フィクション作家としてあの事故をどう書いたらよいのか方法論がわからなかったんですね。
 記録でも記憶でもない普遍的な物語を書こう。それだけは決めていました。間違っても、元記者の過去自慢になってはならない、と。やがて思いついたのが、墜落現場を封印するという執筆手法でした。記者として現場を誰より知っている私が現場を書かない。具体的には主人公に一度も現場を踏ませない。この発想を得た瞬間、私はジャーナリズムと真に袂(たもと)を分かったのかもしれません。
 ――でも、全編を通して書かれているのはジャーナリズムのあり方ですよね。地元紙のデスクを主人公にし、事故そのものではなく、事故を報道する新聞社の内部を描いているのが特徴的でした。
 警察小説で書いてきた「組織と個人のせめぎ合い」を、ここでも全面展開しました。現場から遠く離れた編集局を舞台にすることで、いくつもの人間ドラマを創出し、そこからメディアという生き物の精神性を炙(あぶ)り出せると考えたんです。
 事故そのものは歴史的事実ですが、横糸として架空の新聞社の苦闘を織り込むことで小説化できた。フィクションとノンフィクションは互いに補完し合う関係だと思っていますが、この作品は、虚と実を隔てる皮を極限まで薄くしました。まあ、登場人物たちは、イヤなやつも含めてすべて私の分身なんですけどね。
 ――もう一つの特徴が、谷川岳に登る場面と事故を報道する新聞社の場面が交互に出てくることです。
 山岳小説を書いてみたいという別の頭がふとリンクしたんですね。ただ、実際に書いてみて痛感したのは、緊迫した新聞社の場面を延々描くしんどさでした。もう苦しくて苦しくて、それが山の場面に転換すると、ふーうと腹の底から息を吐き出せた。谷川岳のパートがなかったら書き抜けなかったかもしれません。
 ――今も横山さんを悩ませる御巣鷹はどんな状況だったんですか。
 うーん……。そうですね、散乱した遺体を踏まずには現場にたどり着けなかったです。一夜明けて、私が横になっていた体の下や両脇からも遺体が見つかり、警察官や自衛隊員が掘り返しては運び出す。メモを取る手が硬直して動かなかったです。この惨状を伝えるんだと懸命に自分に言い聞かせるんだけど、取材なんかやめて手伝ったほうがいいんじゃないか、報道は虚業なんじゃないかとまで思って、記者として圧倒的な無力感に打ちのめされました。
 ――小説のなかで、現地に入って「物憂げな男に変貌(へんぼう)」してしまった若手敏腕記者が力をふりしぼって書いた現地雑観を、横山さんはこんな風に描いています。「若い自衛官は仁王立ちしていた。/両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。/自衛官は天を仰いだ。/空はあんなに青いというのに。/雲はぽっかり浮かんでいるというのに。/鳥は囀(さえず)り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。/自衛官は地獄に目を落とした。/そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった――」
 そこは、封印した現場を伝聞情報として描いた数少ないパートですね。少ないだけに結晶のような一文が不可欠でした。天から降るようにして、新聞記事らしからぬ「ポエム」が浮かびました。あの日、あの現場では、私の知るすべての形容詞と慣用句と言い回しを駆使しても御巣鷹を描写できなかった。だから、あの日から18年がかりで書いた「現場雑観」と言えるかもしれません。
 ――横山さんは「クライマーズ・ハイ」は鎮魂のために書いたわけではないと言い続けていましたね。
 思いは深いですが、事故を踏み台にと考えた時期もあったわけですから、鎮魂を口にすることはできません。それに「誰か」のために小説を書こうとしたら筆が濁るというのが私の持論です。ただ、自分の心の水準器に従い、力を尽くした作品であれば、結果として誰かの役に立つことがあるかもしれません。情報は時とともに散逸しますが、物語は時を超えて人の心に寄り添うと信じています。三十三回忌を迎える今、この本が事故の風化を防ぐ一助になってくれていれば良いなと思います。(聞き手・加藤修)
     ◇
 〈よこやま・ひでお〉 1957年東京生まれ。国際商科大(現・東京国際大)卒業後、上毛新聞社に入社。12年間の記者活動を経て、1998年に「陰の季節」(第5回松本清張賞)で作家デビュー。