薫の野郎猫的日常
2017年08月17日 (木) | 編集 |
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http://www.irbj.net/shop/index.html

猛禽類医学研究所 齊藤慶輔 @raptor_biomed さんのシマフクロウ・タオル2枚、
無事到着!
早速開封して広げてみましたら想像していたより大判で嬉しいです。
素材も良くって使い心地もよさそう。
多方面で重宝しそうです。

介護にも使えそう。


2017年08月15日 (火) | 編集 |
今日は終戦記念日。
でも本当の意味での終戦は訪れていないと思います。

「戦争は人間が起こした」ことだと誰も教えてくれなかった。
神風を信じ、天皇を信じ、日本軍を信じた。
信じなければ生きてはいけなかった。
「日本は負ける」「負けるかもしれない」などと口にすれば一家もろともどんな目に遭うか。
そんな空気があった。
でも、国策映画しか作れなかったこの国にいながら、仕事でディズニーの「白雪姫」を観た瞬間、若き淀川長治は、そのあまりの国力の違いに、「なんで日本はこんな豊かな国と戦争などするんだ」と思ったそうだ。

日本は戦争に負ける。
そう思っても、誰もそのことを口にすることをしなかった。
できなかった。

大半の日本国民は「真実」など知る由もない。
曲げられた真実を信じていた。
信じさせられていた。
信じるしかなかった。

誰も教えてくれなかった。

世界11億のカトリック信者の宗教的指導者であるとともに、宗教を超えて平和を訴え続けたローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、1981年、広島・長崎を訪れました。
この時、法王が語りかけた「平和アピール」。
36年経った今読んでも色褪せない、力強い言葉です。
そして戦後歴代の日本のリーダー誰も、教えてくれない言葉がここにはあります。
今こそ、すべての日本人、特に日本の政治家に読んでほしい。
 
  平和アピール  ヨハネ・パウロ二世(来日の時のアピール)
 戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。
 この広島の地、この平和記念公園で、人は特に強くそのことを感じます。信じられないほどの破壊力を思いおこさせる、不幸な運命をになった二つの都市、それは広島と長崎であり、それ故にこの二つの都市の名は永久に語られるでしょう。世界平和を築きあげるという人間の営みを打ち砕くのは戦争であるという警告を、次代の人々に告げるため、我々の時代から選ばれたのが、二つの都市であり、それ故、広島と長崎の名は、いつまでも人の心に残るであリましょう。
 広島市長をはじめ、ここに集まられた友人の皆さん、私の声に耳をかたむけているすべての方々、私のメッセージが届くすべての方々に申します。
1.本日、私は深い気持にかられ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動をおぼえています。私がこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことだ、という強い確信を持っているからです。この地上のありとあらゆる所に、戦争のもたらした惨事と苦しみの故に、その名の知られている場所が数多く、あまりにも数多く、存在しています。それは、人類の犯した悲しむべき行為だと言わねばなりません。戦勝記念碑―それは一方の側の勝利の碑であると同時に、数多くの人々の苦しみと死を物語るものです。国のために命を落とした人々、崇高な目的に命を捧げた人々が横たわる墓地があります。同時に、戦争のもたらす破壊の嵐の中で命を失った、罪のない一般の人々が横たわる墓地もあります。強制収容所や死体処理場の跡―そこでは、人間と侵すべからざる人権とが卑められ、野卑と残酷とが最も強くあらわされたところでした。戦場―そこでは、自然が慈悲深く地上の傷を癒していますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。こうした数多くの場所や記念碑の中でも、特に広島、長崎は、核戦争の最初の被災地 として、その名を知られています。
 あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考える時、私は頭を垂れざるを得ません。また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生きのび、ついに破滅へと向かった人々のことを想う時にも、同様の気持ちに打たれるのであります。この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。人間の考えやものの見方、ないし人問の文明に対して、核戦争をもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考える時、特にそうした想いにかられるのであります。
2.過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。広島市の皆様は、最初の原子爆弾投下の記念碑を、賢明にも平和の記念碑とされました。私は、この英断に敬意を表し、その考えに賛同します。平和記念碑を作ることにより、広島市と日本国民は、「自分たちは平和な世界を希求し、人間は戦争もできるが、平和を打ち立てることもできるのだ」という信念を力強く表明しました。この広島から、この広島での出来事の中から、「戦争に反対する新たな世界的な意識」が生まれました。そして平和への努力へ向けて新たな決意がなされました。
 核戦争の恐怖と、その陰惨な結末については、考えたくないという人がいます。当地での出来事を体験しつつも、よく生きてこられた入々の中にさえ、そう考える人がいます。また、国家が武器を取って戦い合うということを、実際に経験したことのない人々の中には、核戦争は起こり得ないと考えたがる入もいます。さらに、核兵器は、力の均衡を保ち、恐怖の均衡を保つため、致し方のないものだとする人もいます。しかし、戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果すべき役割、個々人の役割を、考えないで済ますことは許されません。
3.過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、我々が抱く「現代の課題」の意味を、より良く理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますます増え、破壊力をも増大しています。
 核兵器は依然として製造され、実験され、配備され続けています。全面的な核戦争の結果がいかなるものであるか、想像だにできませんが、核兵器のごく一部だけが使われたとしても、戦争は悲惨なものとなり、その結果、人類の滅亡が現実のものとなることが考えられます。私が国連総会で述べたことを、ここに再び繰り返します。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争へ向けての準備が絶えまなく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備が整うということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、ある時、どこかで、何らかの形で、誰かが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険をおかすということです。」
4.過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃墟を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります。戦争という人間が作りだす災害の前で、「戦争は不可避なものでも必然でもない」ということを、我々は自らに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるものの食い違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、杜会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題を抱えており、そのために、国家問の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家問の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理にそって、解決されねばなりません。それは、人類にとって肝要なことで す。国内秩序を守るために法が制定されるように、世界の国々には、国際関係を円滑にし、平和を維持するための法制度が作りあげられなくてはなりません。
5.この地上の生命を尊ぶ者は、政府や、経済・社会の指導者たちが下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からではなく、「平和の為に何が必要かが考慮してなされる」よう、要請しなくてはなりません。目標は、常に平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに充ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。
6.35年前、ちょうどこの場所で、数多くの人々の生命が、一瞬のうちに奪い去られました。そこで、私はこの地で、「人間性のため、全世界に向けての生命のためのアピール」を、人類の将来のためのアピールを、出したいと考えます。
各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。
正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。
今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないという固い決意をしようではありませんか。
人類同胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。
暴力と憎しみに代えて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。
この国のすべての男女、全世界のすべての人々に次のように申します。
国境や社会階級を越えて、お互いのことを思いやり、将来を考えようではありませんか。
平和達成のために、自らを啓蒙し、他人を啓発しようではありませんか。
あい対立する社会体制のもとで、人間性が犠牲になることが決してないようにしようではありませんか。
ふたたび戦争のないように力を尽くそうではありませんか。
全世界の若者たちに、次のように串します。
ともに手を取り合って、友情と団結のある未来を作ろうではありませんか。
窮乏の中にある兄弟姉妹に手を差しのべ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。
あなた方の若い精神は、善と愛をおこなう大きな力を持っています。人類同胞のために、その精神を使いなさい。
私はここで預言者の言葉を繰り返します。
すべての人々に
「彼等はその剣を鋤にうちかえ、そのやりを鎌にうちかえる。国は国にむかいて剣をあげず、戦闘のことを再びまなばない。」(イザヤ書2-4)
神を信じる人々に申します。
我々の力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。
神が我々の一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。
愛を持ち自己を与えることは、彼方の理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目ざめようではありませんか。
最後に、自然と人類の創造主、真理と美の創造主に祈ります。
私の祈りの声をお聞き下さい。それは個人や国家の間のあらゆる紛争や暴力の犠牲者の声だからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。それは人々が武器と戦争にたよる時、苦しむすべての子供たちの声だからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。すべての人間の心の中に、平和の持つ英知と、正義の
持つ力と、隣人愛の持つよろこびとをもたらしてくださるよう、祈っているからです。
私の祈りの声をお聞き下さい。戦争を嫌い、平和の道を歩もうとするすべての国、すべての時代の人々に代わって祈っているのですから。
私の祈りの声を聞き、英知を与えてください。憎しみには愛をもってあたり、不正には完全な正義をもってあたり、窮乏に悩む者には己れを与え、戦争には平和をもってこたえることが出来ますように。
神よ私の祈りを聞き、世界にあなたの「永遠の平和」を与えて下さい


2017年08月15日 (火) | 編集 |
「国のため、愛する人のため身を投げ出した若者の魂は美しい、敬うべきだ」と仰る方は、生まれた時から戦争を知らず、民主主義をお腹いっぱい謳歌されていること、当時、国がどのようなイデオロギーで、若者たちがどのような教育を受けていたかを綺麗に無視されている。

★あとおれが戦争行きたくないって意見にコメントに「だったら日本からでていけ!」とか「お前は朝鮮人か!」とか「お前みたいなやつ黙れ!」って意見あったのみて、この声が、戦争漫画でよくみる「この非国民が!」かと。そーいうやつから順番に戦闘機に乗せる法案を提案したい。

特高に行く直前に撮った写真でなぜ彼らはあんな輝く笑顔を見せられるのか?お国のため死ぬことが誉れという教育を受けて育っているからじゃないの?

★私の父は予科練の生き残りでしたが、天皇陛下のために死ぬことに何の疑問もなかったと言ってました。全面的に信じていいのかどうか、もはや確かめようもありませんが、そういう時代だったからと、たびたび言ってました。

あの時、国のため、愛する人のため身を投げ出した若者がもし、今のこの時代に生まれ、今の教育を受けていたとしても、あの日と同じことをしたかどうか…もしかすると真逆のことを言い、まったく反対の行動をしてたかもしれないとも思うのです。

私の父は幼い頃を満州で過ごし、熊本に引き揚げてすぐ長崎に働きに行き、そこで被爆しました。しかし、父は満州時代も被爆のこともほとんど口にすることなく、次世代に「なにか」伝えることなく亡くなりました。これもまた「そういう時代」だったからでしょう。でも「そういう時代」ってどういう時代? 

★「そういう時代」について正確に語ることは当事者でも難しいでしょう。そういう概念に過ぎないものと思います。

だったら「そういう時代」ってひとくくりで済ませちゃいかんと思うのです。一言で済ませられることじゃない気がします。だって「そういう時代」がどういう時代だったか、今まで誰も説明できた人はいないのですから。

お願いです。「そういう時代」ってどういう時代だったか、どなたかわかるように教えてください。

母方の父の仕事の都合で台湾で育った母は、台湾とは比較にならないほど貧しい、匍匐前進しながら機銃掃射の弾をよけながらの畑仕事の行き帰り、熊本に帰ってきてからの命がけの戦中戦後の想い出を少しばかり話してくれた。そのほんの少しばかりの話だけでも、十分、子供心にうなされそうになるような中身だった。(でもその中で祖母が作ってくれた太い手打ちうどんを男兄弟と競ってどんぶりで、呑みこみながら食べた話は今も美味しそうだと思う。)(母は作らなかったが、祖母の家に遊びに行くと季節ごとに作ってくれる、台湾仕込の粽ぽいせいろで蒸した鶏と牛蒡と人参、生姜が効いたもち米、鶏と生姜の効いた汁物の美味しさは今も覚えている)

無言を通した父、少しばかりの想い出話を聞かせてくれた母。どちらにしても饒舌ではなかったし、お国のために命を捧げることが尊いとも、無駄死にだったとも一度も口にはしなかった。でも彼らの言葉少ない中に、喜怒哀楽のすべてがまじりあっているような気がします。

私は、この平和な時代に生まれ育ったことに感謝しています。よかったと思います。戦争は嫌だし、お国のためじゃなく自分のために生きて死にたい。この国の為政者が、大人たちが、今のままの世界を子供たちに残せるよう、戦争をしないよう、巻き込まれぬよう、「そんな時代」に戻らぬよう、叡智と知恵を尽くしてくれることを願う。「こういう時代」を壊してくれるな。


2017年08月13日 (日) | 編集 |



2017年8月6日放送 NNNドキュメント「4400人が暮らした町~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園」

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。
広島に落とされた原爆。
爆心地の中心、産業奨励館の川向う、今の平和公園には4400人が暮らす街があった。
元住民が公園を訪れていた子供たちにそのことを伝えると、
「それ間違ってるよ。ここは公園だよ。町なんかなかったんだよ」

原爆ドーム(元「産業奨励館」)の川向に一軒の割烹旅館があった。
「吉川旅館」
吉川晃司の祖父母が営んでいた。
吉川の父が生まれ育った場所。
吉川家は疎開していて難を逃れたが、
吉川の父だけは原爆後に爆心地へ戻り被爆した。
所謂「入市被爆者」
そしてそれから20年後に吉川が生まれた。
吉川の父は今も原爆、被爆について多くを語ろうとはしない。
被爆2世の吉川も年月を重ねて初めて、父の気持ちを察することができるようになった。

「時代が変わって海外からも多くの観光客が訪れるようになったんだから、
なんとかこの平和公園はかつて町だったことを教えてほしいね」

「やっと世界が核に対して声を上げ始めた。つい最近、核兵器禁止条例までできたって言うのに、なんで日本は参加しないの?」

「まだこの国は戦争が終わってないんだよね」

広島で原爆を表す「ピカ」と「ピカドン」
この2つの言葉には被爆者と爆心地との距離を表す。
「ピカ」は瓦まで溶かした熱線を表す。
爆心地から2キロまでが「ピカ」
その後の「ドン」を聞くことを許された人たちは爆心地から2キロ以上離れた場所にいた人たち。

吉川の故郷、中島地区の人々も「ドン」を聞くことができなかった人々。

吉川家から旅館を受け継いだ船本家。
どんな人たちだったのか。

全滅だと思われていた船本家の人が広島市内に住んでいた。
しかし、原爆のことは一切話したがらない。
が、吉川のためにと、重い口を開き、旅館のことだけは話してくれた。

中島地区で生まれ育った元住民にとっては、ここは公園じゃない。
楽しい想い出がたくさん詰まった、生まれ育った生活の場所であり故郷。
洒落た洋館風の産業奨励館を誇りにしていた。
川向こうには4400人が暮らしていた。
そこには町があった。
でもそれを知っている人は決して多くはありません。

長崎で被爆した父と同じだ。
何も語りたがらなかった父。
その重い沈黙こそが真実。

2017年08月12日 (土) | 編集 |
浦上天主堂 

父が被爆した長崎。

NHK-BSの「幻の原爆ドーム」興味深い番組だった。なぜ長崎版原爆ドームと言われた浦上天主堂は戦後9年目に壊されたのか。現代の私たちからすれば、残すべきだと思う。でもあの時代、悲惨な記憶を消し去りたい人々、一刻も早い復興を願う人々もいた。安易に犯人探しに結論付けない姿勢に共感。

長崎の原爆ドームである浦上天主堂がなぜ取り壊されねばならなかったか。金と権力。そして、アメリカは、偶然であってもキリスト教の象徴である教会に原子爆弾を落としたという記憶を消さねばならなかった。

取り壊しを主導した当時の長崎市長 田川務と(大)司教 山口愛次郎、行政と宗教のトップ達の渡米の謎。

もしあれが教会じゃなかったら…広島と同じ宗教的でない建物だったら、きっと今も残っていただろうね。

踏絵でキリシタン弾圧していた土地に建てられた浦上天主堂。そこが被爆した。神の怒りだと信者は苦しんだ。

だからこそ、原爆を忘れたい。同じ土地に新しい聖堂を再建したい。

戦勝国で豊かなアメリカの力が働いたのか?それとも故郷の事情と長崎の民の「真の願い」に寄り添ったのか?

本当は長く保存したかったのか?それとも何もかも新しくして再スタートを切りたかったのか?

自らも多くの親類縁者を原爆で傷つけられた二人がどのような気持ちで爆心地でかろうじてその姿をとどめていた浦上天主堂を取り壊すに至ったか…

広島と長崎。

被爆後、いろんな意味で全く違った道を辿った。それは今も、原爆忌での市長たちの平和宣言の内容にも表れていると感じます。

怒りの広島、祈りの長崎。永井隆先生の影響か?

広島同様、浦上天主堂も被爆した姿のままで残してほしかった、という言葉は今の平和で豊かな時代に生きるものだから言えることなのかも…当時の人々は心の中でそう思っても言えるような時代ではなかったのかも。


「たとえ明日世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」
浦上天主堂の次に節子サーローさんのドキュメンタリーを観ています。
沈黙の閃光/ セツコ・サーロー


「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」始まりました。 原爆が投下された浦上地区。カトリック信者と被差別部落の人々は、戦後長く被爆体験を黙して語らなかった。

奇しくもBS1の浦上天主堂のドキュメンタリーにつながるような部分があったETV特集だった。浦上という場所はキリシタンの受難の歴史と被差別部落の人々の苦難という本当に重く複雑な歴史を抱えてきた場所だった。キリシタンと被差別部落という「二つの浦上」。迫害、差別という風土が長く浦上にあった。それだけでなく、迫害されたキリシタンと彼らを迫害してきた部落民という二つの浦上の中での対立。加えて彼らを迫害、差別してきた長崎市民。移住してもなお差別してくる日本国民。根が深過ぎる。

長崎市は「被差別部落はない」と発表。原爆投下の浦上地区には、靴製造の被差別部落「浦上町」があったのに。東洋一の美しいお御堂がある浦上上空に原爆が投下されたのは、小倉が曇りだったから。第2候補地の長崎が晴れていたから。原爆投下を機に、被差別部落「浦上町」はないことにされそうになっていた。

怒りの広島、祈りの長崎。
永井隆先生の影響か?
※日本基督教学会第64回学術大会、広島女学院大学で開催(2)なぜ「怒りの広島、祈りの長崎」なのか? : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ http://www.christiantoday.co.jp/articles/22143/20160927/jscs-2.htm

「浦上は神に捧げられた仔羊=犠牲である」→「憎しみは口にすべきではない」
信者の思いを代弁した一方で、その言葉が、つらい思いを発したい信者の思いを封じてしまった。

永井隆の燔祭説(はんさいせつ)によって、信者たちが黙らざるを得なかった。
※燔祭(-はんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。 その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというもの。

怒りの広島に対して、祈りの長崎というのは、そういう側面もある。

長崎は怒りを表現するのが遅かったのかもしれない。

「被爆者と被差別部落の2重差別から逃れて大阪に行ったが、そこでも差別はあった。憎しみは今も消えない。」
「毎年、夏の太陽の激しい太陽の照りつけが来るたびに悲しみがこみ上げてくる。」

被差別部落出身者の中村由一さん「小学生の頃、私は名前ではなく、ずっと【ハゲ】【原爆】などと呼ばれていたのに、先生は卒業式の時だけ戸籍上の名前で呼んだ。もしその時【ハゲ】とか【原爆】と呼ばれていたなら返事して立っただろう。が、そうじゃなかったから自分の意志で返事せず、立ちもしなかった。でも卒業証書だけはもらった。母のため。土方しながら自分たち子供を学校に行かせてくれた母のため。証書をもらった後、級友から取り上げられ破かれそうになり必死で取り返し、母に渡した」

中村さんは若い世代に問う。「この世からいじめや差別はなくなると思いますか?」

「私はいじめや差別がこの世界からなくなると思います」

浦上のキリシタンと被差別部落。
長くキリシタンだった被差別部落の人々を仏教に改宗させたのは時の権力者。権力で彼らをキリシタン弾圧のため利用した。
浦上4番崩れ。
被害者と加害者。
長く深い沈黙を破るきっかけはローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来日だった。
※ローマ法王「平和のメッセージ」⇒ http://www.geocities.jp/setuoh/houou.htm

「戦争は人間の仕業だ」「戦争は死である」

戦争は人間の仕業とはっきり法皇様が教えてくださった。自分たちの住んでる場所へ原爆を落としたのは人間であって、天罰ではなかった。

長く深い沈黙を破り、浦上のキリシタンも被差別部落者も次の世代に、世界に自分たちの体験を伝えようとしている。

2017年08月12日 (土) | 編集 |
8月12日。
羽田空港18時12分発伊丹空港行のJAL123便ボーイング747型ジャンボ(乗員乗客524名)が、18時56分に群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落。520名もの命が失われました。4人の方の生存は奇蹟と言えましょう。

1985年の御巣鷹山墜落事故から32年。
33回忌。
忌上げ、弔い上げ。

キャンドルナイト2 

築地の広告代理店でJAL機内放送制作を担当していた私にとっても、一生忘れられない日です。

特別な日。
1985年のあの日も今年のように猛烈に蒸し暑かった。
いつものように上司が先に退社。
麻雀だろう。
私もいつも通りに残業。
オフィスのつけっぱなしのテレビ…
夕方6時のニュースが始まり、最初こそ普段通りの進行だったが、それからしばらくして頻繁に速報のテロップが。
「JAL羽田発大阪行き123便、レーダーから機影が消えた?」
最初は意味が分からなかった。
でも顔がこわばり、緊張感に溢れた声の露木茂アナの特番に変わり…
こりゃ、大変だ!
上司のいそうな雀荘に電話をかけまくり、6時半過ぎにやっとこさ探し当て指示を仰いだ。
今はただ静観するべし、なにもするな、向こうからかかってくるのはいいが、こちらからはクライアントにも電話するな、とのこと。

次の日から平常業務と同時に…


搭載されていた機内誌「Winds」の特集が上野村だったので、急きょ刷り直ししました。
一生、坂本九さんの歌をプログラムにもBGMにも流せなくなりました。
事故機の生存者の方から事故発生時刻に落語を聞いていたとの証言があり、正確な事故発生時刻を割り出せると思われたのですが、あれは無限にループしているのでそれは適わず。

事故に関することで話せるのは仕事関連のみ。

それ以外のことは棺に中に持っていく。
言えないことがたくさん。
想いだすのも辛い。
でも絶対死ぬまで忘れない。
忘れたくても忘れられないし、忘れちゃいけない。

あの時、会社代表として現場に赴き、犠牲になられた方々のご遺族に頭を下げ続けたJAL社員たちのなかに、私のクライアントも大勢いたが、彼らもきっと今も様々な感情の渦巻く中で32年目の今日を迎えるであろう。

あの日のことを、あの事故のことを知っているからこそ、あの事故に係る方々、皆さんのお気持ちが他の方より少しですが理解できます。

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忘れません!

この惨事を元に書かれた小説で有名なのが、山崎豊子の「沈まぬ太陽」と横山秀夫の「クライマーズハイ」。どちらとも映画化された。山崎豊子はすでにこの世を去りましたが、当時、あの現場にいちばん多く足を運んだと言われる地元群馬の新聞記者だった横山さんが、重い口を開いた。

惨状を前に、圧倒的な無力感 日航機事故と横山秀夫さん
聞き手・加藤修2017年8月11日13時44分
⇒惨状を前に、圧倒的な無力感 日航機事故と横山秀夫さん:朝日新聞デジタルより転載。http://www.asahi.com/articles/ASK88530KK88UTIL020.html

羽田発伊丹行きの日航ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落してから12日で32年。作家の横山秀夫さんがこの事故に向き合った「クライマーズ・ハイ」は、「半落ち」「64」と並ぶ代表作だ。横山さんに、事故への思いと執筆の背景を聞いた。
 ――520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から今年で32年になります。
 この時期になると今も気分が沈みます。テレビで特別番組があってもリアルタイムで見る気になれなくて。録画はするんですけどね……。
 ――当時、最も御巣鷹の現場に通った記者だと聞いています。
 地元紙ですから、事故直後から2カ月近く、ほぼ毎日登りました。記者を辞めたあとになって、出版社の人から「御巣鷹の現場の惨状をノンフィクションで書かないか」と声をかけられたことがありました。引き受けましたよ。当時は作家デビューをしそこね、マンガの原作もうまくいかず、経済的に困窮していました。あさましい話ですが、「これを書けば世の中に出られるかもしれない、チャンスだ」と思ったんですね。
 ――「クライマーズ・ハイ」の前にそんな作品があったなんて、初めて聞きました。
 いや、書き上げていません。というか、ほとんど書けなかった。一報を聞いて墜落現場に向かい、8時間かけて山を登って到着し……そこで筆がぴたりと止まって。現場を書こうとするたび嘔吐(おうと)して。あの事故を踏み台に世の中に出よう、生活費を得ようなんて考えた自分に押しつぶされたんでしょうね。それで誓いました。金に困っていない時に改めてあの事故と向き合おうと。
 ログイン前の続き――「クライマーズ・ハイ」を書き始めたのは2001年です。ノンフィクションを断念してからは5年以上、「陰の季節」で作家になってからでも3年経っていますね。
 本が売れはじめて、生活が安定してきた時期でした。日航機事故のことは常に頭の隅にありましたが、警察小説の執筆に追われていて、書くきっかけがつかめなかった。あれだけの経験をしていながら書かないのはおかしい、逃げているんじゃないかと自問したりもしましたが、実際のところ、フィクション作家としてあの事故をどう書いたらよいのか方法論がわからなかったんですね。
 記録でも記憶でもない普遍的な物語を書こう。それだけは決めていました。間違っても、元記者の過去自慢になってはならない、と。やがて思いついたのが、墜落現場を封印するという執筆手法でした。記者として現場を誰より知っている私が現場を書かない。具体的には主人公に一度も現場を踏ませない。この発想を得た瞬間、私はジャーナリズムと真に袂(たもと)を分かったのかもしれません。
 ――でも、全編を通して書かれているのはジャーナリズムのあり方ですよね。地元紙のデスクを主人公にし、事故そのものではなく、事故を報道する新聞社の内部を描いているのが特徴的でした。
 警察小説で書いてきた「組織と個人のせめぎ合い」を、ここでも全面展開しました。現場から遠く離れた編集局を舞台にすることで、いくつもの人間ドラマを創出し、そこからメディアという生き物の精神性を炙(あぶ)り出せると考えたんです。
 事故そのものは歴史的事実ですが、横糸として架空の新聞社の苦闘を織り込むことで小説化できた。フィクションとノンフィクションは互いに補完し合う関係だと思っていますが、この作品は、虚と実を隔てる皮を極限まで薄くしました。まあ、登場人物たちは、イヤなやつも含めてすべて私の分身なんですけどね。
 ――もう一つの特徴が、谷川岳に登る場面と事故を報道する新聞社の場面が交互に出てくることです。
 山岳小説を書いてみたいという別の頭がふとリンクしたんですね。ただ、実際に書いてみて痛感したのは、緊迫した新聞社の場面を延々描くしんどさでした。もう苦しくて苦しくて、それが山の場面に転換すると、ふーうと腹の底から息を吐き出せた。谷川岳のパートがなかったら書き抜けなかったかもしれません。
 ――今も横山さんを悩ませる御巣鷹はどんな状況だったんですか。
 うーん……。そうですね、散乱した遺体を踏まずには現場にたどり着けなかったです。一夜明けて、私が横になっていた体の下や両脇からも遺体が見つかり、警察官や自衛隊員が掘り返しては運び出す。メモを取る手が硬直して動かなかったです。この惨状を伝えるんだと懸命に自分に言い聞かせるんだけど、取材なんかやめて手伝ったほうがいいんじゃないか、報道は虚業なんじゃないかとまで思って、記者として圧倒的な無力感に打ちのめされました。
 ――小説のなかで、現地に入って「物憂げな男に変貌(へんぼう)」してしまった若手敏腕記者が力をふりしぼって書いた現地雑観を、横山さんはこんな風に描いています。「若い自衛官は仁王立ちしていた。/両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。/自衛官は天を仰いだ。/空はあんなに青いというのに。/雲はぽっかり浮かんでいるというのに。/鳥は囀(さえず)り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。/自衛官は地獄に目を落とした。/そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった――」
 そこは、封印した現場を伝聞情報として描いた数少ないパートですね。少ないだけに結晶のような一文が不可欠でした。天から降るようにして、新聞記事らしからぬ「ポエム」が浮かびました。あの日、あの現場では、私の知るすべての形容詞と慣用句と言い回しを駆使しても御巣鷹を描写できなかった。だから、あの日から18年がかりで書いた「現場雑観」と言えるかもしれません。
 ――横山さんは「クライマーズ・ハイ」は鎮魂のために書いたわけではないと言い続けていましたね。
 思いは深いですが、事故を踏み台にと考えた時期もあったわけですから、鎮魂を口にすることはできません。それに「誰か」のために小説を書こうとしたら筆が濁るというのが私の持論です。ただ、自分の心の水準器に従い、力を尽くした作品であれば、結果として誰かの役に立つことがあるかもしれません。情報は時とともに散逸しますが、物語は時を超えて人の心に寄り添うと信じています。三十三回忌を迎える今、この本が事故の風化を防ぐ一助になってくれていれば良いなと思います。(聞き手・加藤修)
     ◇
 〈よこやま・ひでお〉 1957年東京生まれ。国際商科大(現・東京国際大)卒業後、上毛新聞社に入社。12年間の記者活動を経て、1998年に「陰の季節」(第5回松本清張賞)で作家デビュー。



2017年08月10日 (木) | 編集 |
6月26日の父の七回忌法要の帰り道にお邪魔した梅丘の「東京ねこなかま」さんで一目ぼれして購入した「運をつかむ」ポストカード。10㎝×15㎝のサイズに合ったいい額縁を探していたのですが中々気にいったものが見つからず。でも、父が被爆した8月9日の長崎原爆忌の昨日にやっとこさ出逢えました❤

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木目を生かしたwashed effect wood frame.

早速トイレに飾りました。

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白い壁紙と電球色灯のなかで、砂浜に打ち上げられた木をイメージした自然な素材とデザインがいい感じ。(自画自賛)これで今まで以上に運をつかめるぞ♪


2017年08月09日 (水) | 編集 |
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田上市長による長崎平和宣言。胸を打つ感動的な宣言でした。
「日本政府に訴えます。核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を被爆地は到底理解できません。条約への一日も早い参加をめざし、核の傘に依存する政策を見直してください」。

そして被爆者代表の深堀さんは「核は人間と共存できません」と断言されました。

安倍晋三首相は国連で採択された核兵器禁止条約について「条約は、我が国のアプローチと異なるものであることから、署名、批准を行う考えはない」との方針を改めて示した。同市で開かれた平和祈念式典などに出席した後の記者会見で語った。首相は「真に『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器国の参加を得ることが不可欠だ。しかし、条約には核兵器国が1カ国として参加していない」とし、「核兵器国と非核兵器国の隔たりを深め、『核兵器のない世界』の実現をかえって遠ざける結果となってはならない」と主張した。

核兵器禁止条約の交渉にすら参加しない政府の姿勢に「理解できない」「極めて残念」と批判が相次いだ。安倍晋三首相は「(条約に)署名、批准を行う考えはない」と記者会見で明言。被爆者と対面した際には条約に一切触れず、被爆地とのすれ違いが際だった。「あなたはどこの国の総理ですか。私たちをあなたは見捨てるのですか」
 午後、長崎市で被爆者代表の要望を首相らが聞く会合があった。冒頭、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(77)は首相に要望書を渡す前に強い口調で言った。
 米国の「核の傘」に依存し、条約に冷淡な首相には面と向かってただしたかった。要望書は長崎の被爆者5団体がまとめたが、「(条約採択の場に)唯一の戦争被爆国である我が国の代表の姿が見えなかったことは極めて残念です。私たち長崎の被爆者は満腔(まんこう)の怒りを込め、政府に対し強く抗議します」と記した。


田上市長の平和宣言と、安倍晋三首相の挨拶全文は以下の通り。


*** *** ***
平成29年 長崎平和宣言
長 崎 平 和 宣 言
 
 
 「ノーモア ヒバクシャ」
  この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
 
 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
 
 人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2017年(平成29年)8月9日
長崎市長  田上 富久
*** *** ***
 本日、被爆七十二周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。
 そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 一発の原子爆弾により、一瞬にして、七万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われたあの日から、七十二年がたちました。一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々が強いられました。人々の夢や未来も、容赦なく奪われました。
 しかし、長崎の人々は、原子爆弾によって破壊された凄惨な廃墟(はいきょ)の中から立ち上がり、たゆまぬ努力によって、素晴らしい国際文化都市を築き上げられました。
 この地で起きた惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責務です。
 真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
 そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。
 そして、昨年十二月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯な議論も踏まえながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効五十周年となる二〇二〇年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
 被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。
 特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
 結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十九年八月九日
内閣総理大臣・安倍晋三 



2017年08月09日 (水) | 編集 |
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お米、お味噌、果物と、熊本県内のオーガニック農家さん繋がりでまた、新しい無農薬農家さんとのご縁ができました。

到着しました!
待ちに待った「地のもの」便
今日のために冷蔵庫空っぽにして待ってました。

南阿蘇の椛島農園さんのオーガニック野菜便Mサイズ!&卵10個のセットです。

卵は蒲島さんが考え抜き、工夫に工夫を重ねた自家製飼料。阿蘇の湧水や椛島農園の無農薬野菜や雑草野菜で育った鶏から生まれたもの。ほとんどが有精卵だそうです。抗生物質や薬剤は一切使っていないとのこと。

今日届いた野菜は、泥付き人参、メークイン、玉ねぎ、オクラ、ナス、ピーマン、キュウリ、トマト、ニンニク、大葉、ゴーヤ、ミニトマト、モロヘイヤ、カボチャの14種類♪

みんなとても濃い色で、サイズもスーパー級。
美味しそうです。
「おすすめレシピ」も入れてくれてるので、まずはそれで調理してみましょう!



2017年08月09日 (水) | 編集 |

8月1日にSNSで見つけ、すぐにオーダー!
昨日無事に到着しました。


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水引細工の大橋丹治株式会社さんオリジナルの
猫柄和手拭&猫の水引細工の飾り結びの祝儀袋

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実物の方が数倍素敵です。
これ、使うのもったいない(笑)


あっという間に大ブレークしちゃったようで注文数が激増、製造が間に合わず、現在、オーダーから到着まで2~3週間ほど掛かっているようです。